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第十四回 : 埼玉銀杏会 

第十四回 : 埼玉銀杏会 

写真:第13回 埼玉銀杏会総会
上田 治三郎 様(うえだ・じさぶろう)
1951年(昭和26年)3月 東京大学法学部卒業
埼玉銀杏会 名誉会長
日本臨床内科医会 顧問

緒方 信一郎 様(おがた・しんいちろう)
1956年(昭和31年)3月 東京大学法学部卒業
埼玉銀杏会 会長
社団法人日本倶楽部 評議員
元・財団法人自治総合センター 相談役

磯部 正昭 様(いそべ・まさあき)
1966年(昭和41年)3月 東京大学文学部卒業
埼玉銀杏会 副会長
公認会計士
埼玉りそな銀行 監査役
会計人東大会 前会長
埼玉銀杏会紹介
東京大学全学同窓会として「銀杏会」が誕生したのは、1989年(平成元年)4月のこと。それから5年後の1994年(平成6年)、「銀杏会」の各県地区支部として「埼玉銀杏会」が設立された。現在は300名を超える会員を擁し、年1回の総会、講話を聞く会、会報誌の発行のほか、旅行部会(散歩をする会)、ゴルフ部会、囲碁部会などの部会活動も活発に行っている。そんな埼玉銀杏会が、昨年11月から「TODAI 2000」の支援募金をスタート。今年12月まで掛けて100万円を目標としていたが、開始4ヶ月後の3月末、目標額の倍を超える33件、216万円の寄付が集まり、中締めとして東京大学基金に寄付をいただいた。今回は、埼玉銀杏会・名誉会長の上田治三郎氏、会長の緒方信一郎氏、副会長の磯部正昭氏のお三方に、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。

学生時代の思い出を教えてください。

写真:緒方氏

緒方氏

緒方氏:私が東大に入学したのは昭和27年。まだ、戦後の余じんがくすぶっているころで、学生運動が盛んに行われていました。この年には「血のメーデー事件」もあって、教室までオルグにくるのですが、私はノンポリ学生でしたからね(笑)。さまざまな左翼系の組織が、東大生を巻き込んで革命に持っていこうと、ある意味非常に熱気あふれる時代でした。

駒場に行って驚いたことがあります。「うたごえ運動」が盛り上がっていたのです。校門に指導者がいて、みんなで歌う。主には革命を念頭に置いての運動なのですが、「美しい心が、たくましい体にからくも支えられる日がいつかは来る。その日のために体を鍛えておけ 若者よ」。ほかにもロシアやドイツの民謡とか、なかなかいい歌が多かった。私たちも仲間とグループをつくって、「うたごえ」にはまりました。

私は旧制高校を経ないで、新制高校から東大に入ったわけですが、教養課程の駒場は元「一高」の校舎でしょう。落書きなど旧制高校のにおいがまだたくさん漂っていましたね。教養学部長だった矢内原忠雄先生が、入学の前年に総長になられて、校門の脇に「矢内原街道」という垣根の破れ目があった。学生がピケを張っていると「おまえらここから入れ!」と指図したという伝説も聞きました。まあいずれにせよ、かなり騒然とした時代だった。そんな状況の中で、勉強に励んだというより、私は仲間と一緒に青春をおう歌することに忙しかったですね(笑)。

磯部氏:私は昭和36年に文科II類に入学し、文学部に進んで卒業まで5年掛かりました。昭和35年がちょうど60年安保闘争で、翌年には政治的暴力行為防止法の反対署名運動が活発化。立て看には、江田五月とか、現衆議院議長の横道孝弘とかが、学生運動のリーダーとして名前がよく出ていました。まあ、大変な時代に大学に入ってしまったということです。

私の高校時代からの友人で、地球物理学者となった島村英紀君から誘われて、東大新聞に入部しました。でも、私にはやっていることが難しく、「思想が合わない」という理由を付けて半年で退部。その後は、先輩の権藤さん(元日本債権信用銀行取締役)や市村さん(現江戸川学園大学学長)が浦和でやっていた塾(学力増進教室)で講師のアルバイトを続けました。

その間に、会計士試験を受験しようと文学から方向転換しました。単位は取れませんが、会計学の江村稔先生や諸井勝之助先生の授業を聴講させていただきました。そして昭和41年7月の公認会計士二次試験を受験し、その年の暮れに合格して会計士補となったのです。ちなみに監査法人に勤務していた35歳の時、東大新聞のベテラン事務局員の谷さんに本郷三丁目辺りで、ばったり会いましてね。組織内に会計税務が分かる人間がいないので応援してよと頼まれ、半年しか部に在籍していない私ですが一応OBとして、最近までずっと東大新聞の監事をしていました。歴代の総長、大河内一男さん、佐々木毅さん、濱田純一さんも東京大学新聞の理事長でした。実は、東大新聞理事長は意外な総長コースなんですよ(笑)。

上田氏:緒方さんが昭和27年に入学ということですが、私はその1年前の昭和26年に卒業しています。入学したころは、御徒町の駅から龍岡門まで歩いてくると、切り通しまでの道の両側はほとんど家もない焼け野原でした。それが卒業までの3年間に、ほぼ復興したので、当時、日本人の勢いのすさまじさを実感しました。そんな時代に、私たちは学業に打ち込んでいたのです。

お二方と違って私の時代は、学制改革の前でしたので、旧制高校の3年間が駒場の教養課程に相当し、旧制高校を卒業しての東大受験ですから、旧制浦高卒の私には駒場経験がないんです。いきなり本郷でした。それが昭和23年で、3年間で卒業。私たちの時代から学生運動やストライキはありましたが、法学部はただの一度もストライキをやったことはない。それが法学部の誇りでした。左翼の連中が25番教室に登壇してアジっても全員で阻止した。それが法学部の伝統だったんです。

当時の総長は南原繁さん、憲法の宮沢俊義さん、法理学の尾高朝雄さん、行政法の田中二郎さん政治史の岡義武さん、刑事訴訟法の団藤重光さん……みんな神様のような、生涯の師と仰ぐ方々がたくさんいらっしゃいました。勉強に拍車が掛かったのも当然でした。今でも私は時に、尾高朝雄さんの「国家構造論」「実定法秩序論」を読み返します。物事の原点をしっかり解説した本は、60年たっても色あせない新しい学びを、私に与えてくれます。

愉快な行事の思い出を一つ。25番教室で緑会の大会の時、当時の会長で法学部長の我妻栄さんが、「私は緑会会長に最もふさわしい。家内が“緑”で私が“栄”。緑、栄えるである」と。その後、当時空襲を受けて廃きょになっていた懐徳館(洋風)でアトラクションが開催されました。売り出し中の三木鶏郎の「冗談音楽」グループが出演し、残がいに駆け上がったりして演技。私たちを大いに楽しませてくれました。その場の冒頭で、尾高さんの実に楽しい名スピーチがありいまだに忘れませんが、これはお預け。なお、三木鶏郎さんは本名繁田裕司で旧制浦高、我が法学部の異色の大先輩です。

卒業後はどのような道に進まれたのですか?

緒方氏:父親が内務省の役人だったこともあり、私も国家公務員を目指しました。まあ何とはなしに、マインドコントロールされていたんでしょう(笑)。内務省の後継が自治省だったわけですが、幸いにもそこに入れていただいて。自治省で前半生を送ったということです。

後半は、衆議院事務局に移りまして、それからいろんな仕事をさせてもらいました。例えば衆議院で事務総長を5年務めたおかげで、政治を内側から眺めると同時に、私たち国家公務員がやってきたことはこういう風に見られていたんだなと。立場が違うと、今までの自分の仕事がよく分かるわけです。ためになった貴重な経験でした。その後は国立国会図書館館長を4年務め、図らずも日本道路公団の総裁を引き受けることになり、2年間務めさせてもらいました。

写真:磯部氏

磯部氏

磯部氏:文学部で勉強しながらも、将来自分は何をすべきか悩んでいました。父親が公認会計士をやっていまして、仲間と一緒に昭和監査法人を立ち上げました。父は25年程前に引退しましたが、その後、最近まで何度も合併を繰り返し、今の新日本有限責任監査法人となりました。だから、スタート時点では、浦和から新日本監査法人の一部分は始まったのだ……というのもあながち冗談でもない(笑)。

まだ監査法人も存在せず、当時は会計士の仕事があまり世に知られていなかったので、受験したら意外と受かってしまいまして。卒業して父の事務所に入所して働き始め、5年前に65歳で定年退職するまでずっとサラリーマン公認会計士です。リタイヤ後はすごく暇でしたが、ありがたいことに1年後に声を掛けていただき、埼玉りそな銀行の監査役とJKA(元日本自転車振興会)の監事を務めさせてもらっています。

上田氏:卒業後は財政経済官庁志望だったので、大蔵省へ入りました。若い時代に税務署長に出ましたが、終戦後10余年、日本はいまだ復興途上で、国民生活も貧しく左翼運動も激しく、そこでは種々の貴重な実体験をしました。私たちの時代は、担当する仕事のすべてが新しいテーマで、行政も「日々創造だね」と言って毎日全力投球したものです。

本学出身の優れた上司、先輩、同僚に恵まれて、良きお導きを得、あるいは切磋琢磨(せっさたくま)して、己の持てる力を全部出し切って務めを果たせたことに満足しています。特に、高橋、松下両事務次官の温かいご指導には、心に深く刻んで今もって感謝しております。よって、国家公務員としてお役に立てたという達成感を持って地方局長クラスにて、48歳で役所を卒業。最初は、酒団法上の日本酒造組合中央会という酒造メーカーの団体に転じました。常務理事として、近代化計画の推進や酒税確保につながる日本酒センターの設置・日本酒振興キャンペーンなど日本酒市場の振興に参画。これを10年。

ついで、住宅金融公庫に部長として出向した時代に、融資保証協会の設立を手掛けた関係で、兼務の時期を含めてしばらくこの協会の常務理事を務めました。その後は、畑違いの膵臓病研究財団の理事長を経て、今は日本臨床内科医会の顧問を務めさせてもらっています。
ほかに浦和在住ということもあって、旧制浦和高等学校同窓会の常務理事を30年近くお引き受けしています。

埼玉銀杏会の活動及び寄付への取り組みを教えてください。

緒方氏:実は今回の前から130億円の寄付の件でも、折に触れて会員への働き掛けは続けていたんですよ。130億円が達成されたと思ったら、今度はなんと2,000億円(笑)。その発表がなされてからも、志のある人は是非協力しようじゃないかと、声掛けはしていました。ちなみに、地区同窓会の名前で寄付を集めるという方法は、渉外本部の方にもらったアイデアです。その結果として、地区同窓会一番乗りで寄付を実現できたのは、非常に光栄なことだと思っています。

磯部氏:この件で渉外本部の下田さんから連絡があり、2010年10月に行われた埼玉銀杏会の総会で、「TODAI 2000」の話をしていただきました。その席で翌月の11月から2011年の12月までの期間を設け、100万円という目標額を決め、埼玉銀杏会として基金への寄付に取り組むことが議題となり、東京大学基金へ同窓会として協力することが決まりました。さらに会長である緒方さんと募金実行委員長の磯部の連名で、会員全員にご協力の依頼状を送ったという次第です。

写真:上田氏

上田氏

上田氏:緒方さん、磯部さんや何人もの方や私も、すでに個人で寄付をして安田講堂に銘板が掲示されていますが、「埼玉銀杏会」の名前で銘板が掲示されることを、会員全員で楽しみにしているところです。埼玉銀杏会は年1回の総会、講話を聞く会、会報誌の発行のほか、親睦目的として、旅行部会(散歩をする会)、ゴルフ部会、囲碁部会などの活動をしていますが、何かのときに母校のお役に立つという目的も重視し、力を入れているところです。

5月末に2度目の中締めということで寄付金を締めてみたところ、257万円の実行がありました。中締めというと宴会などでは終わりに近いようですが、寄付金の募集はまだ年末まで続けます。これから行くぞという気持ちです。いわば、“仮締め”ですね(笑)。あとは、ほかの地域の同窓会のみなさんに、渉外本部からどんどん私たちの取り組みをモデルケースとして伝えてほしい。全国の同窓会のみなさんも、是非同窓会として東京大学基金に進んでご応募ください。

今後の東大、東大生に望むことを教えてください。

写真:赤門前にて

赤門前にて

緒方氏:私からは2つの点を伝えたいと思います。大学は専門的な学問を学ぶ場所です。そして技術だけに限らず、さまざまな専門分野において、世界の大学と競い合っているわけです。蓮舫さんは「なぜ2番ではいけないんですか?」と言いましたが、遠慮なんてせず、世界をしっかり見て、一生懸命、1番を目指してほしい。それがきっと日本がこれからどうやって生き残っていくか、という指標となるはず。そしてその重要な命題は、東大に課せられた大きな任務だと思うのです。

あとは、上田さんもこの後話されると思いますが、深い教養を身に付けた人間になってほしい。東日本大震災が起こって以降、日本人の立ち居振る舞いが、世界中から称賛されています。いろいろな見方がありますが、やはり教育水準が高いこと、そのため民度が高いということがある。そんな国家づくりの役割も、東大が率先して担っていくべき。是非、すべての東大生が、この国をすばらしい未来へけん引するのは自分だという認識を持って、勉学に励んでほしいと思います。

磯部氏:私はそんなに偉そうなことが言える立場ではないですが。ただ、大学生時代は先程もお話ししたように、学生運動華やかしきころで、みんな国家についてどう思うかを真剣に議論したわけですよ。私は結果的に、公認会計士になりましたが(笑)。国家を語ることは、東大生の役割だと思いますね。何て言うんでしょう、東日本大震災は、日本人が国家を考える良い機会になりました。起こってしまった自然災害を恨むのではなく、日本はこれからどうやって進んでいくのか、みんなで真剣に議論するべきですね。

あと、大学時代を一緒に過ごした友人とは、きっと一生仲良くしていくことになるはずです。私が新聞部に在籍したのは半年だけでしたが、新聞部同期の中尾君(元NHK)とか、駒場のクラスの仲間とか、一緒に勉強したり、酒を飲んだり、マージャンをしたやつらとは(笑)、今でも濃い付き合いが続いています。みなさんも、東大で出会った仲間とのきずなを大切にしてください。これは実感値ですけど、東大の仲間をたくさんつくれば、社会に出ても何の心配もないですから(笑)。

上田氏:旧制浦和高校では東大受験なんてまったく考えず、文学、哲学、外国語など、徹底して教養を深めるために勉強した3年間でした。全寮制で、1年生は全員寮に入っていましたが、後に新制度になって東大駒場の教授、助教授になられた先生たちですが、日替わりで宿直し、部屋を回って声を掛けてくれる。そこで、ひざを突き合わせて、直に教えられたり、議論もしてくださいました。今の駒場の先生はそこまでやっていますかね?学者としてのレベルアップも大事でしょうが。あのころの旧制高校の先生方は、よき素材の生徒たちを豊かな教養を持った人格に育て上げるべく、教育に非常に熱心だった気がします。先生に情熱と迫力を感じました。

あとは、同級生にすばらしい人物が多かったこと。旧制高校では先生から学ぶだけでなく、同級生からも多くを学ぶことができました。これは収穫でした。今の東大でもそこは同じだと思うんですよ。しかし、最近の大学生を見ていると、勉強の量が私たちの学生時代に比べて、圧倒的に少ないようです。勉強の蓄積がないと、根っことなる信念が形成されず、少しの風にもゆらゆらすることになるんです。社会に出ると集中して勉強する時間は取れません。学生時代に、先生はもちろん、同級生とも勉強や議論の時間をたくさん取って、東大という最高の環境の中で、知識、教養を身に付ける競争を存分にしてください。そして、厚みのある社会人になって、国・社会の支柱になってほしい。また、そうした気概と自覚を持ち続けてほしい。心からそう願っています。

取材・文:菊池 徳行

※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。

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