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第十八回 : 古賀 信介様

第十八回 : 古賀 信介様

写真:古賀 信介様
古賀 信介(こが・しんすけ)
Koga Komeda & Company 代表
1948年(昭和23年)10月12日生
佐賀県出身。医師だった父の仕事の関係により、小学2年までは広島で、その後は東京で育つ。区立の小中学校、私立桐朋高等学校(東京都国立市)を経て、東京大学理科二類に進学。在学中に“文転”し、1973年に経済学部を卒業する。卒業後は、当時の第一勧業銀行に入行し、1980年、社費留学によりマサチューセッツ工科大学でMBAを取得。34歳で同行を退行。その後は、米国経営コンサルティング会社ベイン・アンド・カンパニー、メリルリンチ証券、UBS証券のマネージングディレクターなどを歴任し、グローバルビジネスの第一線で活躍した。1998年、国内大手法人からの誘いを受け、2006年までに2社の取締役最高財務責任者(CFO)を歴任。現在は、自身の投資アドバイザリー会社Koga Komeda & Companyの代表を務めている。
寄付者紹介
1973年に東京大学経済学部を卒業した古賀信介氏は、社会人としてのキャリアを第一勧業銀行(当時)でスタートする。そして、社費留学でマサチューセッツ工科大学経営大学院のMBAを取得し、国内トップバンクで誰もがうらやむエリートコースを快走していた。しかし、34歳で自らその道をスピンアウト。経営コンサルティング、インベストメントバンキングなど、グローバルビジネスの世界に身を転じ、約15年、第一線で活躍。その後、国内大手企業2社の取締役最高財務責任者(CFO)を歴任し、現在、自身で立ち上げた投資アドバイザリー会社を経営している。2015年、東京大学基金は古賀氏から「米国・英国から東大大学院への留学を志す学生たちのために役立ててほしい」とご寄附をいただき、「古賀信介奨学基金」を設立。すでにその支援を受けた米国(or英国)人学生が、本学大学院で研究に打ち込んでいる。今回はそんな古賀氏から、学生時代の思い出や、東大への期待をお聞きした。

理科二類で入学し、経済学部へ進む。
ビジネスの世界で生きていこうと決める

母方の祖父は旧唐津藩士の子弟で、日露戦争直後に中国の満州に渡り、今でいう水産商社を立ち上げた起業家でした。満鉄との取引が中心で、かなりの成功を収めたようですが、第二次世界大戦敗戦により、すべてが露と消え……1946年8月、本籍地の佐賀県東松浦郡呼子町に引き揚げてきました。その呼子で、母の兄が、満州医科大学の同級生で卒業後軍医となっていた父古賀虎之助と偶然出会い、私の母を紹介。そして結婚。1948年に、私が誕生したというわけです。そんな両親の元、一人っ子の長男として育てられました。

その後、父は広島県立医科大学(のち広島大学医学部に併合)の助手の職を得て、家族三人で広島へ転居。そして1957年、私が小学校2年のとき、父は東京・中野区に自分の医院を開業します。それからはずっと東京暮らしで、小中学校は地元の区立に通い、高校は桐朋高等学校(東京・国立市)へ。現役で東大の理科三類を受けたのですが、惜しくも不合格となり、一浪後に、東大の理科二類に進路を変え合格、進学しました。

駒場時代は大学紛争がいちばん激しかった時期です。この教養課程のなかで、さまざまなことを考えました。このまま理学部に進んで学術的な研究成果を得たとしても、例えばそれが軍事目的など、自分が使ってほしくない分野で使われることもある。また、果たして、純粋な学問的探求と立身出世が内面的な葛藤なしに両立できるのか。こういう悩みを抱えそうな世界よりも、立身出世が全面的に肯定されるビジネスの世界で生きる方が気が楽だし、面白いのではないかと。確かに、そのほうが単純明快な生き方でいい、と思うようになりましてね。結果、専門課程は経済学部に進みました。当時、理科から経済学部に進んだのは私のほかに一人だけだったと思います。

社費留学制度を活用して米国へ。
人生で一番輝いている思い出の日々

写真:1980年1月、MITの学生寮にて

1980年1月、MITの学生寮にて
(数学・機械工学専攻のMIT大学院生と。最右が古賀様)

卒業後の進路をどうするかと考えたとき、やはり、自分は金融という世界のなかで活躍していきたいと思いました。そして、どうせなら、一番大きな組織でトップを目指そうと、1973年に、当時の第一勧業銀行への就職を決めました。入行後は、元第一国立銀行の本店であった兜町支店での基本業務から始まって、その後、希望していた外国為替へ。4年目、日本橋支店で働いていたタイミングで、行内留学制度の試験に合格。人事部から800人近い受験者のトップの成績で合格したと伝えられました。実は、留学制度が充実している点も、就職先として第一勧業銀行を選んだ理由の一つでした。

学ぶ国はアメリカ合衆国と決めていました。広島で暮らしていた頃、内職をしながら家計を助けていた母の唯一の贅沢が、月に一度、安い映画館に二本立ての外国映画を観に行くことでした。一緒に連れて行ってもらっていた私はいつも、アメリカ映画に登場するアメリカ人の生活に憧れていたのです。

ビジネススクールの選択は、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、スタンフォード大学の三校を考えました。しかし、ハーバードの授業は毎日三つのケースをひたすら英語で議論するスタイル、MITは理論を重視し論理的に答えに迫るスタイル、スタンフォードはハーバードとMITの折衷形。英語もまだ自信が持てるレベルではなかったですし、数学や論理的思考が得意だったこともあり、ハーバード大学には応募せず、一番先に応募したMITから真っ先に合格通知がありMITへの留学を決めました。

アメリカ留学中の2年間は、私の人生の中で最も幸せに感じた時代です。世界中から集まった優秀な学生たちとの出会いと育まれた友情、アカデミックな雰囲気、レスター・サロー、フランコ・モディリヤーニ、ロバート・マートン、スチュワート・マイヤー等著名教授並びに当時はまだ駆け出しの新任ポール・クルーグマン助教授等の面白い授業、ケンブリッジおよびボストンという魅力一杯の街、つかの間の休みに友人と出かけた米国の広くて長い一本道を行くドライブ――。と、本当に楽しい思い出がいっぱいなのですが、生涯で一番、一所懸命に勉強した時期でもあります。いい成績を残したくて、いつも最前列の席で講義を受けていました。

グローバル金融ビジネスの一線で活躍し、
49歳で方向転換。日本経済発展に貢献を

予定どおりMITでMBAを取得し帰国した私は、第一勧業銀行の本店営業部に配属され、主に大型融資案件を取り扱っていました。当時の仕事はとても充実していたのですが、一方でMITの友人達が卒業後小さなベンチャー企業に飛び込んでいくチャレンジ精神旺盛な生き方に感心していました。これまで通りの銀行で出世したいという気持とは別の、新しい未知のものにチャレンジする勇気が自分にはあるかという問いかけをするようになってしまったのです。そんな気持ちで働いていた帰任3年目、ボストンで知り合った米銀勤務のアメリカ人の友人から「米国のコンサルティング会社、ベイン・アンド・カンパニーが、日本人のMBAホルダーを探している。話した人物はパートナーでMITの卒業だというので君の名前を出してしまった。よければ会ってやってくれないか」という連絡が入るのです。

しばらくして、そのパートナーから接触があり、勧誘をせずただMITの同窓生として会うならという条件で会いました。MITやボストンの思い出話に話が弾み、彼の次の東京出張での再会を約しました。驚いたことに、二度目に会った時に彼はもうオファーを出してきたのです。最初は全く無視をしました。約束違反ですし。しかし、私の心の奥深くに潜むことになってしまった、あの新しい未知のものに飛び込む勇気が自分にはあるかという問いかけが頭から離れず、誰にも相談せずに決断しました。新しい未知のものにチャレンジしてみよう、自由に生きてみようと。上司や人事部には「なにを考えているんだ」「これまでの10年間積み上げてきた名声と実績を捨ててしまうのか」と強く慰留されましたし、みんなから「なぜ古賀は順調なエリートコースを自ら捨てるのか」と、ずいぶん不思議に思われたようです。最高のレールを敷いてくれていた銀行にかける迷惑も考え、留学費用は全額銀行に返還しました。今でも、若かったからとはいえ、銀行には申し訳ないことをしてしまったと感じています。

ベインには3年在籍し、その後は、メリルリンチ証券、UBS証券といった投資銀行で約12年働きました。当初は米国不動産のプロとして、その後コーポレートファイナンス、M&Aなど全般を司るマネージングディレクターとして働きました。その間に少しずつ見えてきたのは、外資系投資銀行は、自社の利益を最大化するために、更により深くは各インベストメントバンカーの強いボーナス最大化の欲求が組織を動かしていること。取引が本当に相手の企業のためになるかどうかよりも手数料の大きさがどうかで仕掛けるような取引などをみると、段々日本企業、ひいては日本経済のためになっているのかと疑問を持ち始めたタイミングで、今度は、ある日本企業から声がかかりました。財務的困難に陥っていたある大手企業の経営者が昔からの知り合いで、「コンサルティングとインベストメントバンキングのノウハウを駆使して、当社を救ってほしい」と。そのとき、私はちょうど49歳になっていました。

今後の人生の時間は、培ってきた能力を日本企業、日本経済のために役に立てたいと考え始めていましたので、そのオファーを引き受けることにしました。結果、CFOとして約3年で当該企業の財務および経営を完全に立て直すことに成功します。その後、過剰債務などの経営課題を抱えていた大手飲料メーカーにCFOとして招かれ、2年の期間で問題を完全に解決。そして2008年、私はUBS時代の後輩とともに投資アドバイザリー会社を立ち上げ、日本企業と海外企業の橋渡しをするビジネスを行っています。

どんな困難も、最後に解決するのは人間同士。
留学で外の国を知ることは必ずプラスになる

MITは誰もが認める世界のトップスクールですし、教育・研究環境、教授陣、学生すべてがトップ水準だと思います。しかし、昨今の「世界の大学ランキング」の結果のように、東大が海外のトップスクールから、あれほどの遅れをとっているとは全く思えません。研究者の評価による最も事実に近いと思われるものでも12、3位です。私が留学していた時のMITビジネススクールのレギュラーコース(2年制)の日本人学生は全員東大卒で、みんな、米英のトップスクールから来ていた欧米人に遜色ないどころか極めて優秀でした。MIT経済学部の大学院に在籍していた学生でも教授陣から最も優秀と言われていたのは東大卒の学生でした。

世界の大学ランキングが基にする評価指標はさまざまですが、例えば、外国人教諭、留学生の数、英語の発表論文数などがありますね。ランキングの上位校はすべて米英の大学で、彼等の母国語は英語。教諭、学生も米英人、そこにその他のヨーロッパやアジアの国々から教諭や留学生としてくれば、もう非常にインターナショナルということになる訳ですが、日本の場合は米英の大学のようになるには、ヨーロッパやアジアからだけでなく、米英からも教諭や留学生を増やす必要があるわけです。でも、実はそこが一番難しい。なぜなら、彼等の住む国に評価の高い大学がたくさんあり、実は東大の方に行きたい学生がいても、遠く離れた日本まで来ると、渡航費や生活費などがはるかに余計にかかる訳です。私は東大が米英の上位校に迫るには、優秀な米国籍および英国籍の留学生を増やすべきだと思っています。それだけで、米英からみると国際化が進展していると感じるでしょうし、英語圏から来た彼等が東大において本場の英語で周囲とコミュニケーションし、研究成果はもちろん本場の英語で発表する。やがて彼等が東大で教鞭をとったり、あるいは米英本国に帰ってトップスクールの研究者・教育者や企業人になっても東大卒として、米英本国内で東大の発信者となっていく。そんな試みを継続することで、時間はかかるかもしれませんが、世界のトップスクールとの差を必ず縮められるはずです。

2015年に微力ではありますが、海外からの優秀な学生を招くための一助となるよう、東大基金に寄付をさせていただきました。そして、東大基金が設立した「古賀信介奨学基金」の支援を受けた米国(or英国)人学生が、すでに東大大学院で研究に打ち込んでいると聞いています。ぜひ、自分らしい研究成果を出して、素晴らしい論文を発表してほしいと思っています。それから、私が米国人学生に奨学金で支援したいと思った理由にはもちろん私がアメリカが大好きだからということがあります。MITに留学することによってアメリカが私の第二のふるさとになりました。たくさんの友人ができ、交友関係、そして人生がゆたかなものとなりました。東大に留学してくる米国人学生も必ず私と同じように、東大が、東大で出会う人々が、そして日本が大好きになるはずです。

留学を志向する日本の学生が減っている、そのニュースを聞くたびとても残念な気持ちになります。グローバルな関係の始まりは常に二国間の関係であって、その基礎を育むのは二国間の人間同士です。留学して現地の人々と交わりを持つことで、勉強以外にも、その国の文化、宗教、人々の人生観など、実にさまざまなことを学ぶことができます。外の国への思いを深くすることが、国家間の関係を深めるための重要なポイントなのです。グローバルな活躍を目指す東大生諸君には、ぜひ留学の機会をつくってほしい。これからのあなたの人生、人間力形成にとってプラスにはなれど、絶対にマイナスにはならないでしょう。どのような困難にぶつかっても、最後に問題を解決するのは人間同士の相手に対する深い理解からくる真のコミュニケーションなのですから。

取材・文:菊池 徳行(株式会社ハイキックス)

※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。

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