第四回 : 小山 冨士夫様

2007年07月19日 (木)

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小山 冨士夫(こやま・ふじお)

株式会社萬富 代表取締役社長

東京都出身。都立両国高校から、東京大学教養学部(文科二類)へ入学、文学部フランス語フランス文学科(以下“仏文科”)へ進学。1960年(昭和35年)に卒業。同年、先輩に誘われて、富士通信機製造株式会社(現・富士通)に就職。4年間の在籍後、家業の萬富へ入社。萬富は、弘化2年(1845年)、小山家が亀戸五つ目で創業した木材商が始まりで、現在は、不動産賃貸業・仲介業、自動車教習所などの事業を手広く展開している会社である。小山氏は、5代目の社長。

寄付者紹介

東京大学で過ごした青春時代は、サッカー少年であり、文学少年であり。現在は、家業の株式会社萬富を継がれ、5代目社長を務める小山冨士夫氏。外国人講師の宿舎用に自宅を提供したことがきっかけとなり、昨年から文学部、ローマ時代遺跡発掘のソンマ・プロジェクト、農学部附属演習林などへ寄付をいただいている。今回はそんな小山氏に、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。

綺羅星のごとく大先生が存在した仏文科

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平成19年3月卒業式
文学部卒業生代表として

大学時代の思い出といえば、私の場合サッカーとフランス文学です。まずは、勉強のほうの話からしましょうか。

私がいた頃の仏文科には、渡辺一夫先生、杉捷夫先生、小林正先生、井上究一郎先生、中村真一郎先生など本当に素晴らしい先生がたくさんいらっしゃいました。講師の中島健蔵先生は日中友好協会会長等多くの肩書きを持つ、当時売れっ子の大評論家でしたがお忙しい時間を割いて『バルザックとスタンダール』という講義を開講して大うけでした。ラブレーの研究でしられる渡辺一夫先生は中世フランス文学の泰斗。

国文科では犬山城の城主、戦国武将成瀬氏の末裔、成瀬正勝先生が近代日本文学の実見的裏話を面白おかしく聞かせてくださいました。

そうそう、英文科(英語英米文学科)の授業もたまに聞きましたよ。例えばシェークスピア研究で有名な、中野好夫先生の講義など黙って聞いているだけですし、当てられなければ問題ないわけですからね(笑)。

当時の仏文科は、1学年で35人だったと思います。大江健三郎さんは1つ先輩でしたが、在学中に『奇妙な仕事』や『死者の奢り』を発表するなど、すでに売れっ子作家でした。大江さんは渡辺一夫先生の授業しか出席しなかったはずです。元・東大総長の蓮實重彦さんも同じ年代ですし、振り返れば当時の仏文科には、後に文学者になる人がけっこういたんですよね。もちろん、僕みたいにそうじゃない人もいっぱいいましたが(笑)。

青春時代のほとんどをサッカーに捧げた

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自宅にてアルバムを
ご覧になる小山氏

入学後すぐに、東京大学ア式蹴球部(サッカー部)に入部し、在学中はずっとサッカー漬けの日々を過ごすことになります。私が1年のシーズンに初めて関東大学サッカーリーグ1部から2部に陥落したんですよ。監督は当時農学部助教授で1999年に文化勲章を受章された田村三郎先生でした。でも、その後は毎年2部リーグで優勝したんじゃなかったかな。4年では、私はキャプテンを務めました。

東大駒場寮で毎年サッカー部の合宿をしていたのですが、100回の腹筋運動をするとみんなお尻が擦り剥ける。駒場のお風呂屋さんで、後ろ姿でも仲間だという事が分かりました。お尻から血を出してるから。駒場祭の名物は河童踊りでした。11月の寒さの中を褌1本で河童の扮装をして、池に飛び込むんですよ。当時正門をはいってずっと右手の方に汚らしい池がありました。

サッカー部でのハイライトは、1958年(昭和33年)、私が3年の時の全日本選手権(天皇杯)、静岡県の藤枝で行われました。東大LBは監督の大埜正雄(元全日本代表選手)、キャプテン岡野俊一郎をはじめOBを主体にして現役の学生が少々というチームでした。私は1番のぺーぺーで3人の補欠の1人でした。

1回戦の京都紫光クラブには順当に勝ち、2回戦の東洋工業(現・マツダ)戦では延長戦に突入。延長戦を勝つには勝ったが、8月の暑い盛りでOB達の疲労は極度に達しました。

3回戦の相手は八幡製鉄。私は快復しきれなかったOBにかわって、10番のユニホームを着て出場の機会を得ました。結局、1対0で敗れるのですが、その後の3位決定戦は地元の志太クラブを3対0破り、東大LBは全日本3位に終わりました。

サッカーで富士通信機製造に就職

一応、卒論も書きました。卒論面接は3対3で行われました。面接官は、渡辺先生、杉先生、井上先生。学生側は、いろは順で小石君、私、鈴木君。鈴木君の卒論テーマはモーリアックだったかな。すごく評価されたんですよ。でも、私の卒論への指摘は、「あ、小山君はサッカー部でしたね……」と(笑)。渡辺先生の温情でした。

当時の文学部には、広告代理店、新聞社、テレビ局など、マスコミからたくさん採用の声がかかっていましてね。小石君は毎日新聞社に、学生時代映画少年だった鈴木君は博報堂に入社。鈴木君は、後にカンヌ映画祭のCMフィルム部門の審査員を務めるなど、広告業界で鈴木宙明の名を知らぬ者がいたら、それはもぐりです。私は、実家が商売をやっていたこともあって、本気で就職する気がなかったんです。4年の夏に御殿下のグラウンドで、サッカーの練習をしていたら、富士通信機製造(現・富士通)にいた、川田さんという先輩に「うちに来ないか?」と声をかけられた。それまで富士通にはサッカー部はありませんでしたから、僕等が事実上のファウンダーでした。

Jリーグ1部で頑張っている川崎フロンターレの前身ですよ。それがきっかけで、入社試験なし、健康診断だけで富士通に就職が決まりました。

東京大学での4年間を思い返せば、仏文の素晴らしい先生方に出会え、大好きなサッカーに没頭し、生涯の友をつくった期間ですよね。今、声高にリベラルアーツの重要性が叫ばれて、小宮山総長も教養重視の方針を打ち出されています。私の場合は、文学とスポーツという自分の好きな分野にどっぷり漬かることができた4年間だったという意味で、図らずして、自らリベラルアーツユニバーシティとして東京大学を活用させていただいた。そんな思いがあります。

世界に名だたる名実ともにトップの大学へ

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学部演習林(北海道富良野)にて奥様と

富士通退職後は家業の萬富へ入社し、現在は5代目の社長を務めています。もう10年以上前になるでしょうか。当時の文学部長で、仏文科とサッカー部の先輩である、西本晃二さんから、「海外から来てもらった講師の宿舎に窮している」と相談されました。ならばと、ちょうど自宅の隣に空いている家があったので、その場所を提供したのです。最初が、イタリア人のパトリシアさん、その後、フランス人のデュランさんなど、たくさんの外国人講師の方々に使っていただいた。その出会いがきっかけとなって、彼・彼女たちの故郷に妻と一緒に旅行に出かけたり。そんな、国際的で面白い関係が生まれたんですよ。思えばこのことが、母校東京大学への最初の貢献だったのかもしれませんね。

そんな時、東京銀座の交詢社で行われた、青柳正規先生のソンマ・ヴェスヴィアーナ遺跡発掘の報告を伺ったのです。先程お話したパトリシアをはじめイタリア人の友人は多かったものですから、イタリアには何度も旅行して、団体旅行ではできないような経験をしていました。青柳先生のお話を身近に感じて、多少なりともお手助けができないものかと思っていましたところ、学友会ニュースで東京大学基金が寄付を募っているということを知りまして。昨年、私がお世話になった文学部とソンマに寄付をさせていただくことを決めました。そして今年は、同じくソンマと北海道富良野にある農学部の演習林に寄付をしています。なぜ寄付をするのか? その理由は、やはり母校がより素晴らしい大学になってほしいから。もうひとつは、国に税金を払うのがクヤシイから。

錐もみのような一点集中の先端研究を続けてきた工学部出身の小宮山総長も、これからは教養が必要とされる時代となると説いています。同じように私も、今後ますますリベラルアーツの重要性は高まっていくと思います。東京大学には今も素晴らしい先生がたくさんいらっしゃいますから、これからの学生にはぜひ、人生の師となるような出会いをつくってほしいですね。

取材・文:菊池 徳行
※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。