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第十三回 : 小林 久志様

第十三回 : 小林 久志様

写真:小林 久志様
小林 久志(こばやし・ひさし)
1938年(昭和13年)6月13日生
東京都出身。72歳。都立戸山高校から、東京大学教養学部理科1類へ進学し、工学部へ。修士課程に進み、1963年(昭和38年)、工学部電気工学科を修了。同年、東芝に入社。1965年、プリンストン大学大学院に留学し、Ph.D.(電気工学博士号)を取得。1967年、NY州IBM中央研究所へ。同研究所のサバティカル制度を活用し、UCLA、スタンフォード大学、西独ダームシュタット工科大学などで客員教授を務める。1982年、IBM東京基礎研究所初代所長。1986年、プリンストン大学工学部学部長に就任。現在は、プリンストン大学シャーマンフェアチャイルド名誉教授。独立行政法人情報通信研究機構(NICT)・特級研究員。
寄付者紹介
アジア人初となるアイビー・リーグ(米国東部の8大私立大学)・プリンストン大学の学部長(工学部)を務め、2005年度には「エドワード・ライン・テクノロジー賞」を受賞――。教育者、通信理論の研究者として、数々の偉業を成し遂げられてきた小林久志氏。東京大学の学生時代には2種類の奨学金、プリンストン大学の博士課程時代にはフェローシップの提供を受け、勉強と研究に没頭。ご自身の礎を築かれている。個人的に東大へのご寄付をされると共に、東大の米国での活動を資金面からサポートすることを目的として設立された米国寄付募集受け皿であるNPO法人「Friends of Todai.Inc」の理事としてまたアドバイザリーコミッティー・チェアマンとしての活動・ご支援も。さらに、今年度の東大大学院入学式では、素晴らしい内容の祝辞をいただいた(同氏のブログwww.HisashiKobayashi.comに掲載。そこからYouTube上のビデオも観れます)。今回はそんな小林氏に、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。

2種類の奨学金提供を受け、
勉強と研究に没頭した学生時代。

1963年3月、東大修士課程卒業の日、
電気工学科、滝・宮川研究室にて
(婚約者、正江と)

私が中学3年の時、東大で数学を専攻していた兄・昭七が、フランス政府の奨学生として留学。その後、アメリカに渡り、MIT、プリンストン高等研究所の研究員を経て、カリフォルニア大学バークレー校の数学科教授になりました。そんな兄を持ったせいか、私も数学が好きで、得意でした。東大への進学を希望したのは、やはり日本の最高学府だったからですね。滑り止めは受けていません。なぜなら、確実に合格する自信がありましたから(笑)。入学後は、世田谷区太子堂の自宅から、駒場まで歩いて30分くらいかけて通っていましたよ。

学士時代も、修士時代も勉学に励みました。あとは、家庭教師のアルバイトを週2日程度。当時で月の収入が2500円くらいだったでしょうか。ちなみに私は、2年から卒業まで、豊年製油の創始者・杉山金太郎氏が私財を投じて設立した財団法人報公会から、毎月、家庭教師のバイト収入と同じくらいの奨学金をいただきました。ノーベル賞受賞者の江崎玲於奈氏も三高時代に杉山奨学金の奨学生でした。さらに私は、カラーテレビを生み出したメディア王として有名な、RCAのデビッド・サーノフ奨学金の国内第1期生でもあります。こちらは、ノーベル賞受賞者の利根川進氏が出ています。そんな支援をいただいたものですから、いつかお金持ちになったら、自分もスカラシップを立ち上げたいと考えています。しかし、もう少し先でしょうか(笑)。

専門を決めるに際して、理学部に進むか、工学部に進むか悩みましたが、自分は純粋数学には向いていないのではないかと。また当時は、クロード・シャノン氏が1948年に発表した論文を始まりとする「情報理論」、通信工学と制御工学を融合したノーバート・ウイーナーの「サイバネティックス」などが新しい研究分野として注目されていたのです。そんなこともあり、私は工学部電気工学科に進み、通信を専攻することに。そうはいっても高校時代に、ハム無線をいじったり、機械づくりに没頭したこともありません。だから、実験は仲間にやってもらって、自分は解析や評価をレポートにまとめていくという(笑)。応用数学的な捉え方で、研究に取り組んでいたように思います。

修士課程修了後、東芝に入社するも、
2年で退社し、米国大学の博士課程へ。

卒論の研究では、瀧保夫教授と宮川洋助教授にご指導いただき、符号化パルスレーダの試作や性能解析を行っています。この研究は東芝からの委託研究でした。当時は産学の連携が今よりもうまく機能していたのではないでしょうか。もちろん、修士論文も符号化パルスレーダについての研究です。「博士課程へ進むべき」というお誘いもいただきましたが、結婚が控えていたこともあって、東芝の技術部レーダ課に入社することになるんですね。会社では、短波帯で大電力のパルス波を出す、オーバー・ホライズン・レーダの実験をしていました。電離層をいわば鏡にして電波を反射させ、水平線下から接近してくる飛行物体を捕らえることができるだろうという発想でした。興味を持って取り組んではいましたが、入社1年をすぎた頃から、やはり兄のように先進国アメリカで博士課程に進み、勉強したいという思いがふくらんでいくのです。

兄に相談し、いくつかの大学の博士課程に志願することに。MITとスタンフォード大学から入学許可を得ましたが、最初の1年は外国人学生への経済的援助はなし。この2校は考慮から外しました。しかし、UCバークレー、UCLA、カリフォルニア工科大学、イリノイ大学からアシスタントシップを、プリンストン大学からはフェローシップを提供されたのです。私は迷わず、数学、物理学の分野で世界のトップにランクされているプリンストン大学を選びました。入学後は必死で勉強し、入学2年目の8月にPh.Dを取得。これはプリンストン大学の電気工学科で、史上最短記録だったんですね。授業料は免除、生活費も支給してもらっていますでしょう。本当にありがたかった。今の自分があるのは、プリンストン大学で学ぶ機会を得たおかげだと思っています。

Ph.Dを取得した後、私は、IBMのトーマス・ワトソン研究所へ入所します。当時のIBMは余裕がありましたし、基礎研究を非常に重要視していたんですね。製品開発はもちろん、大学とのリレーションをつくり、優秀な人材を集めることも研究所の役割のひとつ。そして、IBMはサバティカル制度を設けており、研究員が大学の客員教授として教えたり、新しい研究に取り組むことを奨励していました。私もこの制度を積極的に活用し、IBM在籍中の15年間のうち3年半は、米国内やドイツ、ベルギーなどの大学で客員教授を務めています。

プリンストン大学の工学部長に。
寄付獲得活動も経験する。

1991年10月。
肖像画の除幕式にて
(歴代の工学部長の肖像画は
工学部会議場に飾られている)

IBM東京基礎研究所の初代所長として4年間をすごした後、私はプリンストン大学の工学部長に就任しています。それが1986年、アジア人として初めてのことでした。その頃のプリンストンはアイボリ・タワー(象牙の塔)状態で、産業界ともっと積極的につながっていこうとしていたのです。そんな背景があり、IBMに在籍していた私に、当時のウィリアム・G・ボウエン学長が白羽の矢を立てたと。学部長の責任のひとつに資金集めがあります。学長や、東大でいえば渉外本部のような組織の力を借りながら、企業、資産家、特に卒業生で財を築いた人たちに、多額のご寄付をお願いするわけです。

ご寄付をしてくれそうな方を大学にお招きし、学内をご案内したり、自宅で食事をご一緒したり、フットボールを観戦したりするなど、私はいわばウォーミングアップ役が得意でした(笑)。そして、機が熟したところで、ボウエン学長が即断即決をせまる。彼とはとても相性が良かったんです。プリンストンの学部長は1期5年が任期。残念ながらボウエン学長が2年目に辞められて、その後は私も色々と苦労しましたが、コンピュータ・サイエンス学科の建物を完成したり、理学部と協同の新素材研究センターを発足させたりし、5年の任期を全う。学部長の役割を終えました。

その後は、一昨年にリタイヤするまで教授としての活動を続け、その間には東大の先端研客員教授も務めています。今は、ニューヨークのアパートとカナダのビクトリアにある別荘で暮らし、東京には年に2、3回訪れる程度ですね。独立行政法人情報通信研究機構(NICT)・特級研究員としての活動のためです。この30年、インターネットはものすごく発展しました。しかし、利用人口やアプリケーションが益々増加し、このままでは10年後もしくは15年後には、確実にパンクするでしょう。NICTでは、日本国内はもちろん、アメリカ、ヨーロッパ諸国、アジア諸国の研究団体と協力し合いながら、次世代ネットワークのグランド・デザイン研究に取り組んでいます。

しかしながら今、私の時間の大部分は、プリンストン大学での講義ノートをベースにした大学院向け教科書の著作活動に注がれています。一昨年の5月に「システム・モデル化と解析(System Modeling and Analysis)」と題する本をプレンティス・ホール社から出版しました。この6月の末までに、2冊目の「確率、ランダム過程、及び統計解析」の原稿をがケンブリッジ大学出版に提出する予定。その後、残り2冊(「デジタル通信理論」と「ネットワーク・アーキテクチュアと性能評価」)の出版を計画しています。

良質な教育環境をつくるには、
どうしても潤沢な資金が必要。

私自身、東大時代、プリンストン時代に奨学金をいただいて学んでいますので、個人の寄付、企業や資産家の方々からのフェローシップの提供のありがたさ、大切さが身に染みてわかります。ちなみに、ハーバードの基金資産は350億ドル、プリンストンが158億ドル、東大はわずか4億ドルと聞いています。また、卒業生の寄付参加率を見ると、プリンストンが60%強、東大は4%です。プリンストンは、キリスト教プレシビタリアン宗派の子息たちが、ハーバードやイェールになかなか入れてもらえなかったため、親たちが出資して18世紀半ばに創設した大学なのです。もともと、プロテスタントには、自分の稼ぎの十分の一を教会に寄付する、「十分の一税」という習慣があったそうです。それがずっと継続されているのですね。もちろん、国や大学の歴史や成り立ち、文化や宗教が違いますから、日本もアメリカと同じようにというのは無理ですが。しかし、良質な教育環境をつくるには、設備面の充実、優秀な教授の招聘など、やはりより多くの資金が必要なのです。

優秀な人材が育たなければ、当然ですが、国も企業も衰退していきます。シンガポールの人口は東京の人口の半分以下ですね。そのシンガポールが、国の予算で世界各国から毎年100~200名の博士課程で学ぶ優秀な人材を集めています。そして6年間、学費と生活費を支給するそうです。日本は、その10倍の人材を集めてもおかしくないのではないでしょうか。しかし、我が国の政府にその考えはないようです。そんな窮状を嘆くのではなく、大学が率先して資金獲得に走ればいい。まず、東大の卒業生はもっと協力すべきですよ。収入の5%を節約したとしても、生活のクオリティはそれほど変わらないのではないでしょうか。税金で大学に行かせてもらったわけですから、母校への恩返しのため、収入の5%を寄付するというように頭を切り代えてみませんか。一方で、財をなした人へのアプローチ、優秀な人材を求める企業からのフェローシップの獲得など、東大としても注力すべきことがまだまだたくさんあると思います。

東大の学生には、優秀な教授陣を擁し、世界各国から頭脳明晰な学生、研究者が集まるアメリカの一流大学で切磋琢磨してほしいです。その経験は将来の大きな資産となりますから。多くのアメリカの大学では、博士課程の学生全員に対して、授業料や生活費を支給するフェローシップやアシスタントシップが充実しています。アクセスの権利は誰しも平等なのですから、活用しない手はありません。グローバル時代に必要とされる人材は、国際関係、経済、歴史、文化などに精通し、英語で何の不自由なくコミュニケーションできる知識人であると思います。ひとりでも多くの東大卒業生に、来るべきグローバル社会の中で日本を牽引していくリーダーになっていただきたい。心からそう願っています。

取材・文:菊池 徳行

※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。

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