Myストーリー : 生山 智己様

2011年01月17日(月)

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我が断想

生山 智己様(いくやま ともき)

東京・神奈川・千葉銀杏会幹事。
横浜生まれ。麻布高校卒、昭和52年(1977年)経済学部卒業。日産自動車勤務、日本ペンクラブ・日本旅行作家協会会員。

恩返し

自分を育ててくれた場所、そして自分を育ててくれた先生への愛着は自然な感情だと思う。同じ学び舎で学んだ仲間との関係も損得を超えている。今回はそういう気持ちで寄付をさせてもらった。出身学校、出身地への思い入れ、愛着は、時代とともに薄れてきたのだろうか?東大出身者は、大学を単なる通過点と思っている人が多いように感じる。

「タフな東大生」

青年は必ずしもタフではない。また逆に自信満々の人もいる。タフな人は黙っていても伸びていく。「タフな東大生」という言葉はすべてを表してはいないと思う。さまざまに迷い悩むナイーブさが若さだ、そして、決してタフじゃない若者を先導するのも教育者の役割だ。若者をいたわり、痛みを分かってやるのも教育ではないだろうか。教育には思いやりも必要だ。青年は思い悩んでタフになっていくのだろう。

青春

多感な時代だった。法学部政治学科・丸山 真男先生の下で勉強したいと思い、文Ⅰを受けたが失敗。早稲田大学の政経学部政治学科に入学した。1年間通った後で、「これからは経済の時代だ」と思い直し、東大文Ⅱを受けて合格した。広大な敷地と学費の安さ(月3,000円)に感動した。TBSでバイトして月に10万円以上稼げた頃だ。3年時にアメリカのミシガン州の大学に2ヶ月留学した。4年時もそのバイトの金でロンドンを拠点にしてドイツ、ベルギーなど欧州を回った。欧州は若い感性を刺激するものが多く、特にフランス語の重要性を知った。

大人も悩む

「みんな悩んで大きくなった」というCMがあった。昔は60歳という年齢の大人は成熟していると思っていた。今の自分は60歳に近付いてもこんなに悩んでいることに正直驚いている。

東京銀杏会

父方は政治家の家系だ。祖父は長崎で政治家をやっていた。母方も政治家が多いが、家は代々寺の住職である。東京銀杏会創立に参加したのも政治家の血が効いている。40歳前後から幹事として働いてきた。ぺんてるに勤める先輩が「なぜ東大には同窓会がないのか」と言い始めて人を集めた。その中で何となく主要メンバーになっていった。20年くらい幹事業務をやっていることになるだろうか?創立時は仕事(営業)も忙しかったのによくやってこられたと思う。創立記念の会合は箱崎町のロイヤルパークホテルで開催した。受付をやったが、中曽根 康弘、武村 正義らそうそうたる面々から会費を直接受け取ったのはいい思い出だ。東京銀杏会メンバーは今2,000人くらいだろうか?ボランティアでの幹事業は大変だが、自分の学校を愛しているからできる。

「知」と「智」

学問が実生活と遊離してきた。単なるインデックスになってきている。人生にはいろいろ問題がある。学問だけでは解決できない。大事なのは「知」だけではない。私の名前にある「智」も重要だ。学ぶ知識ではなく、どう生きるか、人間は何のために生きるかも考えるべき。知識はその後から来るものだ。何のために働くのか?生きる糧を得るため?それだけではない。単なる知識、ナレッジは本を読めば得ることができる。先生や友人たちとのぶつかり合いの中で人生は見付かるものだと思う。

東大の使命

戦前の高等教育はよくできている。旧制高校は東京に一高、仙台に二高、名古屋に八高など各地に配置されていた。そして空白地の長崎、神戸、横浜、小樽などには高等商業学校を置いた。明治はグランドデザインがあり得たまれな時代だ。今はグランドデザインが描きづらい時代だ。

東大はいい意味でも悪い意味でも、日本の近代化に関与してきた。全面講和か単独講和かの議論で首相・吉田 茂は東大総長・南原 繁を「曲学阿世の徒」と批判したが、その話から当時の東大総長の重みを感じることができる。

日本という国が将来の進路に迷う今、我が東京大学こそ今後の日本のグランドデザインを描くべきだが、その使命を果たしているかどうか?あえて今問い直すべき時だと思う。

聞き手:廣瀬 聡(渉外本部シニアディレクター)
※肩書きはインタビュー当時のものです。