2011年05月13日(金)
目指すは“IT業界の古き良き日本の会社”
横山 正様(よこやま ただし)
株式会社 インターリンク 代表取締役社長
1989年 東京大学 工学部船舶工学科 修士卒
(インタビュー中に震度3レベルの地震。池袋サンシャインビル35階はかなり揺れた。)
高校は都立国分寺高校。当時身近にいた数少ない東大OBが日比谷高校から理Iに入って文学部へ転部したという現代国語の先生だった。それで何となく東大の理Iに行こうと思った。その前は北杜夫「ドクトルマンボウ航海記」を読んで精神科医になって船に乗って世界中を回ろうと考えていた。
一浪して志望通り理Iに入ったが勉強はしなかった。成績は超低空飛行、ギリギリで進学し船舶工学科へ進んだ。その後、生産研究所の浦(環)研究室に進んだが船は好きではなかった。何をするか悩んでいたら小山健夫先生に「ニューラルネットをやってみろ」と言われた。学習するAI(人工知能)の研究。潜水艇の自動操縦プログラムに挑戦した。まだ世間的には実用化も何もされてない理論だったが、実際にシミュレーションをやったら成功した。この研究はその後の人たちが大きく発展させ、自律型海中ロボットとして結実した。本当は苦し紛れにやっただけだが、最初にやったのは自分だ。
結局、船を造るということはまったくやってない。何も分かっていない。でも海で遊ぶのは好きだ。夢の島マリーナに共同購入でヨットを持っている。ここだけは「ドクトルマンボウ」を引きずっている。
駒場の生協で初めてパソコンに触った。当時は高価で手が出なかったが、商品のパソコンを1~2時間使ってプログラムを組んだ。船舶工学科に進んだが製図が嫌だった。面白い先生はいた。「戦艦大和は霞が関ビルとほぼ同じ大きさで、電気・水道があってレストランもある。しかも動くんだ。造船はすごいテクノロジーだ。」と魅力的な話を頂いたのだが、船舶には興味がなかった。TSG(東京大学理論科学グループ)というサークルにコンピューターの天才が集まっていた。そこから派生したHAL研究室には任天堂の岩田さんがいた。参加はしなかったが、かなり刺激を受けた。当時は授業そっちのけでアルバイトをしていた。普通のプログラムでも月に40万円くらい稼げた。学生のアルバイトとしては最高だった。
アルバイトの流れで起業した。親せきが自営業ばかりだったせいで違和感はなかった。パーマ屋、自転車屋、親は小鳥屋。サラリーマンはいない。「起業する」と言ったら就職担当の先生に呼び出されて怒られた。
最初は船舶工学科の名簿から関係しそうな先輩に「仕事を下さい」というダイレクトメールを出した。ニチメンデータシステムの先輩からソフトウェア関係の仕事をもらえた。有難かった。前述のニューロで5年は食わせてもらった。東京銀行の為替ディーリング用に予測システムを作った。銀行がこのシステムに実際に1億円持たせて本当にディールをしはじめた。止めてほしいと頼んだのだが結局4億円の収益を上げた。後になって「何%かくれませんか」と頼んだがダメだった(笑)。
ソフトウェアを作っていたが、ある日インターネットを急にやりたいと思った。出資を頼みに行った無線機会社の社長が持っていたインターリンク社に名前がいいので参画し二代目社長になった。最初は苦労した。
楽天の三木谷さんの起業の仕方がベストだと思う。3年間どこかで丁稚奉公してコネや人脈を作って起業する。自分は社会での経験はアルバイトで十分と思っていた。
最近は守りに入っている。それではいけない。シリコンバレーのサンノゼに若い人を送り込むことを考えている。シリコンバレーはプログラマーにとっては大リーグのようなもの。サンノゼには日本人が1~2万人いてマーケットがある。ダメなら戻ってくればいい。トライしたいという若者を連れて行く。
昔は大学に頼る仕組みがなかった。東大の看板は利用させてもらった。特に小さい会社にとって東大というブランドは強い。産学協同がうまくできればいい。清華大学で成功しているのは家賃を安くするがストックオプションを大学が持つ。成功したときは大学に還元される。
もし大学の企画部にいたらアプリケーションやソフトウェアのコンテストをやる。「東大でこんなことをやっている」と言えば話題になる。
ベンチャーは純粋に確率だ。母数を増やすしかない。今は数が足りないと思う。
我が社はオタク向けのプロバイダーで普通の人には知られてない。研究職などのリテラシーの高い人を対象にしている。オタク川柳大賞というのを毎年やっている。
松下幸之助を尊敬しており、「古き良き日本の会社」を目指している。終身雇用制で運動会、誕生会、社員旅行あり。究極の理想は「住み込み」のような形。現在ホームページで社歌コンテストを行っている。プロの作曲家からも応募が来ている。
IT系では珍しく離職率が低い。肉食系ではなく草食系。一回入れば本人が辞めると言うまで使う。同じ仕事をずっとやっていれば普通にはできるようになるし、居心地が良ければ頑張ってくれる。
周りには私大の人が多く「また寄付依頼が来ちゃったよ。」と愚痴にしては楽しそうに話していた。それがある意味うらやましかった。そんな時に東大から初めて寄付依頼にきてくれたので喜んで寄付した。少し変わっているが、これが自分の寄付の動機だ。
聞き手:廣瀬 聡(渉外本部シニアディレクター)
※肩書きはインタビュー当時のものです。