2008年04月21日 (月)
本多 健一氏(ほんだ・けんいち)
埼玉県出身。1949年(昭和24年)、東京大学工学部卒業。1957年(昭和32年)、パリ大学理学博士、日本放送協会技術研究所研究員。1961年(昭和36年)、東京大学工学博士。1965年(昭和40年)、東京大学生産技術研究所講師。1966年(昭和41年)、同助教授。1975年(昭和50年)、工学部教授。1983年(昭和58年)、京都大学教授併任。1986年(昭和61年)、東京大学名誉教授。1989年(平成元年)、東京工芸大学短期大学部教授。1996年から2004年まで、同大の学長を務める。1998年(平成8年)、日本学士院会員。フランス国教育功労勲章シュバリエ賞(1979年)、朝日賞(1983年)、紫綬褒章(1989年)、日本学士院賞(1992年)勲三等旭日中綬章(1995年)、文化功労者(1997年)、日本国際賞(2004年)など、受賞歴多数。
藤嶋 昭氏(ふじしま・あきら)
愛知県出身。1966年(昭和41年)、横浜国立大学工学部卒業。1971年(昭和46年)、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。同年4月、神奈川大学工学部講師。1975年(昭和50年)、東京大学工学部講師。1978年(昭和53年)、同助教授。1986年(昭和61年)、同教授。1995年(平成7年)、東京大学大学院工学系研究科教授。2003年(平成15年)、東京大学名誉教授。2005年(平成17年)、東京大学特別栄誉教授。現在、財団法人神奈川科学技術アカデミー理事長、日本化学会会長ほか、公職多数。朝日賞(1983年)、井上春成賞(1998年)、日本化学会賞(2000年)、紫綬褒章(2003年)、日本国際賞(2004年)など、受賞歴も多数。
1967年、当時東京大学工学部助教授だった本多健一氏と大学院生の藤嶋昭氏は、電解液に酸化チタンと白金をつなげて浸し、紫外線を照射するという実験を行った。すると、水の分解が起こり、酸化チタンからは酸素、白金からは水素が発生。「本多・藤嶋効果」と世界から注目される現象の発見である。その後、水以外にも様々な物質を分解できることがわかり、多くの「光触媒製品」を生み出した。現在もこの酸化チタンを用いた光触媒は工業化・応用され、両氏はノーベル化学賞候補者に何度も挙げられている。今回は、東大発展のためにとご寄付をいただいているおふたりに、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。
本多氏:やはり恩師である菊池眞一先生との出会いでしょうか。大学卒業後、実は通産省(現・経産省)の工業技術院へ進むことが決まっていたのです。しかし、菊池先生から「給費制度が使える大学院生枠にひとつ空きがある。研究者としての道に進んではどうか」という助言を受けました。その助言に従ったからこそ今の私があるんです。そういった意味で、菊池先生との出会いが私の人生の方向を決めてくれたのだと思っています。
あとは、社交ダンスパーティの思い出でしょうか(笑)。当時の東大では、毎週どこかしこの教室でダンスパーティが行われていましてね。学内のいろんな部や団体がパーティチケットを売って活動費を稼ぐことが主な目的だったようですが、私もよく参加していました。東大のダンスパーティはとても人気があって、学外のお嬢様方もたくさん来られるんです。私は写真化学の研究で硝酸銀を扱うため、いつも手のひらを真っ黒にしていましたが、ダンスパーティに参加した後は真っ白に。夢中になって踊っているうちに、お嬢様方の洋服で拭かせてもらっていたようです(笑)。
藤嶋氏:私は横浜国立大学を卒業後、東京大学の大学院に進みましたが、実はもし入学を拒否されていれば官僚になっていたかもしれません。国家公務員上級試験に合格し、東大に蹴られたら、どこに入省しようかと考えていましたから。そういった意味で研究者への道の決め方が本多先生と似ていますね。結果的に私は菊池眞一先生の研究室に入り、そこで当時助教授だった本多先生と出会ったのです。本多先生はパリ大学に留学経験がおありで、フランス仕込みのジェントルマン。ご一緒していて本当に気持ちが良く、また研究室の雰囲気も最高で居心地も良く、本多先生のおかげで学者としての人生を今日まで歩み続けることができたのだと思っています。
本多氏:東大の学生には派手なタイプが多いのですが、藤嶋君は最初地味だなと思いました。ですが研究テーマを与えると、粘り強く着実にゴールを目指して仕事をしてくれるので信頼できました。たくさんの論文もしっかり書いてくれましたし。当時の研究所には実験に使う装置をつくっていただくガラス細工の職人さんがいました。職人気質な方で日によってご機嫌が違うんですが、そこも辛抱強く交渉するので気に入られていたようですよ。
質問から少し話がそれますが、藤嶋君は麻雀が好きでしたね(笑)。毎週2回くらいは研究が終わると雀荘に入り浸っていたようです。私もたまに付き合ったのですが、いいカモにされていました。彼曰く、麻雀は勝負勘というか感性を磨く勉強だったとか。
藤嶋氏:大きなテーマを与えていただき、その後は自由に研究をさせてもらいました。当時、水の中の半導体に光を当てる研究はドイツとアメリカで少しだけ実施していましたが、その研究を勧めてくださったのも本多先生です。自由に研究させていただいたうえに、研究費もしっかり取ってきてくださるので、とてもやりやすかったですね。
本多氏:私がNHKの技術研究所にいた時から、写真現像の研究を進めていました。感光材料を電極として現像液中の電位を計るのですが、写真は露光して撮るのだから光照射の下で測定をするべきだと考えました。当初はハロゲン化銀、特に塩化銀などの半導体を電極として水溶液に浸して実験していたのです。その後、ゲルマニウムや酸化亜鉛なども試していくようになり、この研究テーマを藤嶋君にやってほしいとお願いしたんですね。
藤嶋氏:私が修士課程1年の頃でした。ちょうど隣の研究室で先輩の飯田武揚さんがゼロックスのコピーの基礎研究をされていて、酸化チタンの単結晶を使っていらしたんです。飯田さんから酸化チタンの製造元である中住クリスタル社を紹介いただき、単結晶を入手して実験してみました。水溶液の中の酸化チタン電極に強い光を当てたところ、表面からガスが出てきたのです。調べてみると、泡の正体は酸素。「これは植物の光合成と同じ原理だ!」と驚いたわけです。また、対極に使用した白金からは水素の発生が確認できました。1969年、日本化学会の論文誌にこの結果を寄稿したのですが、当時は光エネルギーの概念が定着していなかったこともあり、まったく受け入れてもらえませんでした。
本多氏:その後の1972年、私と藤嶋君共同で書いた論文が、『nature誌』に掲載されました。それでもまだ何も反響がなかった。その翌年にパリで太陽エネルギーに関する国際会議が開かれました。私たちは参加しなかったのですが、参加された上智大の押田勇先生が、多くの海外の研究者から「あの研究のその後はどうなった?」と聞かれたそうです。帰国後、押田先生から「海外では大変な評判だよ」と教えてもらったわけです(笑)。それからですね、国内外から問い合わせの手紙が届くようになったのは。
藤嶋氏:1973年は世界的に第一次オイルショックが起きたタイミングでもあり、石油エネルギーに変わるクリーンエネルギーとして水素エネルギーが見直されていたんですね。ヨーロッパやアメリカで私たちの研究が認知されるようになり、1974年元旦の朝日新聞1面でこの研究が記事として取り上げられたのです。その報道により、国内でも一気に私たちの研究への関心が高まっていきました。
そもそも私が感動したのは酸素の発生でしたが、いつの間にか水素エネルギーが注目されるようになったわけです。その後私は神奈川大学の講師として赴任しますが、1975年に本多先生に東大に呼び戻していただき、実験を続けさせてもらうことになります。
酸化チタンの単結晶はとても高価ですから、チタン板をバーナーであぶって表面に酸化チタンの皮膜をつくり、本郷キャンパスの屋上に敷き詰めて水素を採取する実験を行いました。しかし、1日で採取できる水素はたったの7リットル。照射された太陽光の3%しか酸化チタンは吸収できないことにもよるわけですが、これではエネルギー変換効率が低すぎます。そして代替エネルギーとしての研究は、いったん頓挫することになるのです。
藤嶋氏:1989年、岡崎国立共同研究機構で光触媒の研究を行っていた橋本和仁君を講師として迎えてからですね。彼はとてもアイデアが豊富な研究者で、太陽光だけでこれほど強い酸化力がだせるわけですから、微量でも存在すると困るものを分解するために使ってみようと提案してくれました。たとえば、タバコなど臭いの消臭、油汚れの除去、大腸菌などの殺菌などです。これらの実用化が少しずつ始まり、その後も応用範囲を広げていく中で、酸化チタンでコーティングしたガラスに光を照射すると、表面についた水滴が全面に広がる「超親水性」が発現します。これにより水蒸気を当てても曇らないガラスが生まれました。
また、この力を利用してつくったコーティング材は、水がかかるだけで油汚れなどを浮かして流すセルフクリーニング効果を持つため、今では様々な外装建材や車のサイドミラーなどにも使用されています。水素エネルギー採取の実用化はまだ先になりそうですが、基礎研究の応用により、人々の生活を豊かにする光触媒が世の中に広まっていることに手応えを感じています。
本多氏:寄付をさせていただいたのは、私の人生の中で東大が一番長くいさせてもらった場所であり、とてもお世話になったからです。そういった意味でも東大には愛情があり、また深く感謝しています。ですから寄付の使い道にこれといった要望はありません。有意義に使っていただければと思っています。
学生に伝えたいことはたくさんあります(笑)。東大は日本で最高の教育、研究環境にあります。学生たちはとても優秀で頑張り屋さんだと思います。ですが、そのことを当たり前と思ってほしくない。こういう環境で学べることを謙虚に受け止め、社会に出る前に幅広くそして深い教養を身につける期間としてほしいのです。きっと社会に出ると自分の入った組織独特の価値観に出合って面食らい、悩むことも多いでしょう。様々な人間と人間の間に立ちながら、自分の価値観をしっかり保っていく力が必要なのです。そのためにも専門の勉強以外に、文学でも芸術でもいいですから、心や人間性を磨くことに力を注ぐことです。大学の4年間は、誰にも邪魔されず自分らしい価値観を育てる最高の期間なのですから。
もうひとつ、現代は変化のスピードがとても速い。特にサイエンスの世界はそうです。昨日の技術が今日否定されることなど日常茶飯事でしょう。しかし、ただ前へ前へ進むだけでは危険です。地球環境の悪化もそれを示してくれています。先生方には歴史の重みを踏まえて、厚みと奥行きのある研究と、学生への指導を心がけていただきたいのです。難しいかもしれませんが、立ち止まり振り返って考える勇気が必要とされている時代なのだと思います。サイエンスの本質とは何なのか、常に人間性の上に立つことをしっかりとらえておくことを忘れないでください。
藤嶋氏:5年前まで東大の教授を務めていましたが、留学生の宿舎問題に頭を悩ませていました。東大の寮以外にも、国際交流会館などがありますが、あそこに入れる人は限られています。日本で外国人が住居を確保しようと思うと、様々なハードルが待ち受けているのです。そのため私は自費で数カ所ワンルームマンションを購入して、留学生たちに提供していました。しかし、これはそもそも大学がすべき行為でしょう。長期、短期両方に対応できる、留学生用の宿舎をできるだけ多く確保してほしい。世界中から優秀な学生を集めるためにも、私からの寄付はそのために使っていただければと考えています。
最近の学生に話を聞くと、まったく本を読んでいませんね。新聞を取っていない学生も多いですし。インターネットですぐに情報を取り出せるのは確かに便利ですが、やはりじっくりと本を読んだり、物事を考えたりする習慣を身につけてほしいと思います。
私が学生として研究に勤しんでいた時代は、論文をじっくり読んだり書いたり、同僚や先生方とディスカッションする時間が今とは比べ物にならないくらいあったような気がしています。研究費の配分タームが3年、5年単位と短いですから、多くの研究室が研究費を確保するために自転車操業を強いられていると聞いています。これでは余裕を持った基礎研究に集中することはできませんよね。すべての研究でなくてもいいですし、多額でなくてもいい、たとえば10年タームの基礎研究にも研究費を配分するような仕組みや制度をつくられてはどうでしょう。本多先生もおっしゃっているように、私も時には立ち止まり、振り返って研究の本質を確認する作業が必要だと思っていますから。
取材・文:菊池 徳行
※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。