2010年03月18日(木)
雪 曉通(せつ・あきみち)
中国・上海市出身。1978年、文化大革命後に再開された受験第一期生として、上海大学に入学。1986年、東京大学へ私費留学する。卒業後の1993年に帰国し、不動産開発会社を設立。上海の都市開発にともなう移転住民の住宅確保のために、日本の多摩ニュータウンを参考とした地域開発、および街づくり事業をスタート。その後、同社は急成長を遂げ、従業員数1000人を超える一大グループ企業となった。
私費留学した東京大学で学んだ様々な教養と専門知識を生かし、帰国後に中国・上海市で立ち上げたベンチャー企業を一大グループ企業に育て上げた雪曉通氏。2009年・夏、留学時代に講義を受けた刈間文俊教授との出会いがきっかけとなり、東京大学がリベラルアーツ教育を東アジアに発信する「東京大学リベラルアーツ・プログラムin南京」へのご寄付をいただいた。今回、駒場キャンパスにて、雪曉通氏に大学時代の思い出や、これからの東大への期待をうかがった。
中国では1960年代後半に起こった文化大革命の影響により、約10年間、大学が閉鎖されていた時代がありました。1978年に受験が再開されましたが、10年分の受験生がいっきに大学を目指すわけです。親子で受験していた人たちもいましたからね。その時に、私は何とか上海大学に入学することができ、主にアジアの歴史を勉強していました。あれは大学3年次の夏のこと、上海で日本のブックフェアが開催されました。会場に行って本の山を見た時、私は本当に驚きました。当時の中国は慢性的な物不足であり、本の紙は藁を使ったもので、印刷は当然モノクロです。でも、日本の本は紙が真っ白の上質紙、カラー印刷は当たり前、カバーもとてもきれいでした。
さらに、私が学んでいたアジア関連の書物が大きな棚ふたつぶんくらいありました。当時、中国では関連書物の数が少なく、内容も参考になるのかどうか怪しいものが多かった。しかし、その会場に陳列された本を開いて調べてみると、私がどうしても知りたかった喉から手が出そうな文献ばかりなわけです。こんなにたくさんの本が読める国が隣にあったのか……。このブックフェアで日本の素晴らしい本と出合ったことが、私が日本に留学したいと思い始めたきっかけです。
その後、日本のどの大学に行くか調べる中でわかったのが、東京大学が一番多くの論文を発表しているということ。目指すべき大学は定まりました。そして一所懸命勉強し、1986年に、無事、東京大学に合格。ベトナム問題に関心を持っていた私は、ベトナム問題の専門家である古田元夫先生を紹介していただき、指導教授になっていただくことになりました。実は国費留学の話もあったのですが、断っています。私は自由に様々なことを勉強したかった。それで私費留学を選択したのですが、お金に関してはとても苦労しました。
1986年の来日後、1年間は研修生として日本語を勉強し、その後の6年間、一貫して駒場で学んでいます。だから、この駒場キャンパスには楽しい思い出がたくさんあるんです。今日、久しぶりにここに来て一番驚いたのは、駒場寮がなくなって新しい図書館になっていたことです。私はアパートで暮らしていましたが、授業が終わったらよく友だちの部屋に遊びに行っていました。今でも思い出しますが、あり得ないくらい汚くて、何かの映画撮影のロケ場所に迷い込んだような感じでした(笑)。でも、私はあの雰囲気がとても好きだったんです。なので、今日は少しさびしいですね。
図書館といえば、私は本が大好きでしょう。でも、本を買うと高い。特に参考書はかなり高い。一度読んでしまうと終わりなのに。授業のあと、先生から参考文献のリストを渡された私はいつも一目散に図書館へ向かって走っていました。もちろん、誰よりも先にその本を借りるためです。で、必要なページをすべてコピーするのです。何度も何度もコピーを取っていましたから、今でも私はコピー取りが大の得意なんですよ。当社のアシスタントよりも絶対にうまいと思っています(笑)。
アルバイトしながらの苦学生でしたから、食事を我慢して本を買っていました。中曽根康弘政権時のブレインを勤めた佐藤誠三郎先生の授業はよく休講になるんです。お忙しくて、永田町に詰めていることが多かったので。でも、たまに永田町で授業をされるんですね。その時は嬉しかったです。なぜなら、永田町は古本屋がたくさんある神保町に近いから。足が棒になるまで古本屋を回って、戦利品を手にアパートに帰り、本を読みふけるのが私にとっての至福の時でした。もうひとつ、忘れられないのが学食のカツカレーの味。今、私は経営者として接待をしたり、されたりで、フカヒレやアワビをよく食べますが、学生時代に食べたあのカツカレーのほうが断然においしいと思っています。
帰国後は大学に戻って教授になりたかったんです。留学時代、私は社会調査として多摩ニュータウンの開発調査を行い、そのレポートが中国の雑誌に掲載されました。それ読んだ中国の役人が、私に「都市開発の仕事をやってみないか」と。1992年に私が提案した授業システムの内容が国側に却下されたこともあり、じゃあひとつ挑戦してみようかと。“授業”ではなく、“事業”を選んだわけですね(笑)。しかし、私は都市開発事業の仕組みを学んだことなどありません。ただ、日本という国に住み、日本の都市開発の成功と失敗の歴史を熟知していました。社会学の角度から街づくりを構想したいと考え、1993年、地下鉄1号線の終着駅に広がる土地の開発に取りかかることになるのです。
ただ単に住むための箱をつくるのではなく、道路を引き、学校や公共施設を置き、緑も残しながら、住民が安心して生活できる街づくりをコンセプトとしました。1996年に完成した約7000戸の住宅を備えた街は、私自身が「田園都市」と名づけました。開発は成功裏に終わり、多くの移転住民から喜んでもらうことができました。また、完成した現場の視察に訪れた日本の建設省OB(東京大学の先輩)の方から、「これで終わらず、あなたは20年、30年と開発を続けるべきです。それを約束してくれるなら応援します」と言っていただけた。以来、当社は丸紅、住友商事など、日本の名だたる大手企業に協力いただきながら、投機目的の住宅ではなく、“実需”のための住宅をつくり続けています。創業からこれまでに、1万5000戸を超える住宅を、上海市民に提供してきました。
上海のディベロッパー業者は3000社ほどありますが、当社は業界が発表する「ベスト50社」に常に名を連ねています。日本の細かくて、ていねいなソフトの部分を、しっかり住宅に反映させていることが競合他社との差別化ポイントですね。また、私は留学時代に日本のバブル崩壊を目の当たりにしています。だから、会社経営もジャンプ・ジャンプで大きな成功を目指すのではなく、コツコツとステップアップしながら、長くお客様から愛される企業になればいいという考えです。古田元夫先生はじめ、東京大学の先生方に、とても大切なことをたくさん教わりました。だから、絶対に東京大学の顔に泥を塗るわけにはいかない。そんな思いで、今も経営を続けているのです。
今回、刈間文俊先生が進められている「東京大学リベラルアーツ・プログラムin南京」への寄付をさせていただくことになりました。昨年(2009年)の夏、上海総領事の方から紹介を受けて、刈間先生にお会いした時はびっくりしました。留学時代、先生の講義を受けていましたので。「私のことを覚えていらっしゃいますか」と(笑)。そもそも私は卒業以来ずっと、お世話になった東京大学に何かしらの恩返しをしたいと考えていました。私が寄付をさせていただいたのは、貢献するべき時期がきたと考えたからです。今回の寄付が、中国系東大留学生の先輩や後輩たちの東大貢献への端緒となればいいですね。また、特に、駒場の先生方が教えられているリベラルアーツは本当に素晴らしいものです。鳩山総理も言っていますが、私も東アジア共同体の実現に、同じような意見を持っています。その中でも、日中関係は重要だと思います。隣国同士である日中が仲良くやっていくために、互いに共通となる何かが必要です。そのベースが教養だと思うのです。また、今、中国は高度経済成長期を向かえ、モノがあふれ、人々の関心はモノに注がれています。でも、より良い国をつくるために、若者たちに深い教養を身につけてほしい。5トンのルイ・ヴィトンのバッグより、200グラムの教養のほうが絶対に貴重なのですから。
東京大学のリベラルアーツ教育で、私自身も大切なことをたくさん学ぶことができたと思っています。重要なのは、知識の量よりも、どう考えるかということ。答えが見えない問題にぶつかった時、どうやって解決のための方法論を導き出すのか。この思考を得ることが、生きていく上で、とても大切な道しるべとなってくれます。今の中国にとって、リベラルアーツ教育は絶対に必要です。そう考えて、刈間先生からお話をいただいた瞬間に寄付をさせていただくことを決めました。学生にとってはもちろんですが、駒場の1、2年生に教えるものと同じカリキュラムを展開していただいていますから、中国の先生にとっても教え方を学ぶという意味において、非常に役立つものだと思っています。ですから、今回1度だけの寄付ではなく、継続したご支援ができればと考えています。
今、中国の優秀な学生の多くが、日本を通り越して欧米の大学への留学を目指しています。東京大学は特にアジアの研究に関しては欧米の有名大学よりも格段に優れているのではないでしょうか。だから、東京大学は内弁慶になるのではなく、もっともっとその素晴らしさを中国はもちろん、アジア各国に向けてアピールすべきです。私のように、日本で学んだことや生活経験が、未来の母国発展のためにすぐにそのまま生かすことができるのですから。また、日本には世界に誇る技術力、学問、文化がたくさんあります。日中両国、引いてはアジア全体の発展のために、これからも様々な協力をさせていただければと思います。
取材・文:菊池 徳行
※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。