第十一回 : 淡青セーリングクラブ

2009年09月18日(金)

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伊藤雅宣 様(いとう・まさのぶ)

1965年(昭和40年3月)東京大学法学部卒業。
淡青セーリングクラブ 会長

益子皎 様(ましこ・きよし)

1969年(昭和44年6月)東京大学農学部林学科卒業。
淡青セーリングクラブ 理事 75周年事業準備委員長
株式会社イワクラ 取締役建材事業部部長

浅田素之 様(あさだ・もとゆき)

1991年(平成3年3月)東京大学工学部都市工学科を卒業し、
東京大学大学院工学系都市工学専攻に進学、1994年修士課程修了。
淡青セーリングクラブ 理事 監督補佐
清水建設株式会社 技術戦略室 企画部 主査 博士(工学

東京大学運動会ヨット部OB会

1934年(昭和9年)5月に発足した東京大学運動会ヨット部(創設時の名称は東京帝国大学ヨット倶楽部)。最近では、1999年の世界選手権イタリア大会、2005年のイギリス大会、2007年のメキシコ大会にクルーザー班が参戦するなど、その活躍が目立っている。そんなヨット部が本年2009年、創立75周年を迎えた。5月24日に安田講堂で行われた記念式典には、500名を超える関係者が集結し、大いに盛り上がったようだ。そして、新艇購入を含めた現役強化支援のための寄付目標額750万円を超える厚意が集まりその一部を「ヨット部創立75周年記念・淡青セーリングクラブ」として東京大学基金にご寄付をいただいた。今回は、ヨット部のOBを代表して、伊藤雅宣氏、益子皎氏、浅田素之氏のお三方に、学生時代の思い出や、東大への期待をうかがった。

学生時代の思い出を教えてください。

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伊藤雅宣 様

伊藤氏:高校時代は柔道をしていたのですが、駒場に通い始めた頃、ヨット部の勧誘を受けたのです。僕はガタイがいいので、ボート部からも誘われていたのですが。当時は、石原慎太郎氏の小説『太陽の季節』やヨットを題材にした映画がはやっていたし、やったことがないスポーツに挑戦するのも面白そうだと。そんな理由からヨット部を選択しました。そして4年間、ヨット漬けの生活をすることになるんですね。2月から11月まではほぼ合宿練習の毎日。勉強できるのは、冬場の間だけでしたから、卒業がかなり危ぶまれましてね。就職も決まっていましたので、4年次の最後の試験は、もう必死でした(笑)。ギリギリで何とか卒業できましたけれど。あと、ヨット以外の楽しい思い出といえば……、そうそう。2年になる前、クラスの仲間4人で九州旅行をしたんです。その時に知り合った女子学生が、2年次の5月祭に来てくれたことくらいですね。あとは本当に、ヨットと共にという感じの4年間でしたから。

益子氏:ヨット部を卒業した感覚が強すぎて、大学を卒業した感覚があまりないんです(笑)。僕らの時代は、春秋のインカレ前は月曜日の夜に合宿所に集合して、それからずっと練習して、日曜日に解散。だから、授業を受けるのは月曜日だけ。それでも何とか教養課程の必修単位は取って、本郷に来てみたら学生紛争が激しくなりまして。授業がまったくできない状態に。単位も何もあったもんじゃない。ただ、秩父などの演習林に1週間くらい籠もって行う実習だけは実施されて、あれはとても楽しかったですね。結局、最後は先生が僕個人のために試験をしてくれ、卒業はできました。三菱商事の内定が決まっていましたが、私は3月に卒業できなかったんです。あの時は、学生紛争のせいで3月に卒業できない学生も多く、7月入社、7月入省が普通の年でしたから。三菱商事からも、「卒業になったら出社するように」と言われましてね。だったらと、ヨット部の活動に参加して、6月に葉山の合宿所でインカレの応援をしていた時に、実家から一本の電話が。「あんた卒業したよ」と。それで慌てて東京に戻って、6月9日に初出社したんですよ(笑)。

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浅田素之 様

浅田氏:僕は、伊藤先輩、益子先輩より、20年くらい後輩になるんですね。僕の頃は、年間で180日くらいを練習に費やしていました。ですからお二方の先輩にたがわず、勉強との両立に本当に苦労しました。ただ、先生がとても粋な方で、こんな計らいをしてくれたのです。合宿所は江ノ島にあったのですが、「海の衛生環境調査を卒業研究としてリポートしなさい」と。合宿所に調査するための機材を持ち込んで、近くの片瀬海岸などでフィールドリサーチすることができました。そんなこともあって、ギリギリ卒業することができたのです。また、海に出ると、いろんなゴミが流れてくるのを目にします。僕の専門は環境問題でしたから、ヨット部での活動は、非常に勉強や研究の役に立ったと思っています。卒業後は、マスターに進んで、現在も環境に関する仕事にかかわっています。そういえば、我々の時代に初めて女子マネージャーが誕生したんです。聖心女子大に行って、マネージャー勧誘活動をしたことは、最高に楽しい思い出です(笑)。

部活動の中で特に印象に残っている出来事。

伊藤氏:あれは忘れもしない昭和36年の10月19日、1年生の秋。一緒にヨットに乗っていた、先輩が亡くなったことです。風向の急変化による大波が来て、操作ミスで転覆し、通りかかった通船ボートに助けられたのですが、「お前は艇に掴まっていろ」と言って先輩が流された備品を取りに飛び込んで、心臓麻痺で……。僕は横浜の赤白灯台のところからそのまま流されて、鶴見辺りの海上で保安部の船に救出されました。同じ日に慶応大の2年生も1年生と乗っていて海に投げ出され、1年生は艇に残っていて助かったが2年生は亡くなりました。その事故のあと、父からは「もうヨットなんてやるな」と言われました。当然ですよね。当時はライフジャケットを着用してない人が多かったんです。二度とこのような悲しい事故が起きないよう、それからはライフジャケットを必ず身につけるようになりました。また、後輩たちが二度とこの様な事故を起こさないよう常に注意し続けるのが務めと思ってヨット部と関わり続けています。

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益子皎 様

益子氏:僕も事故の思い出が、強烈な印象として残っています。4年次の7月でしたが、レースの帰路に浜名湖沖で、部員3人が乗ったヨットが大型の台風に襲われました。ひとりはいったん海に投げ出されたのですが、奇跡的にセールに体を拾い上げられたそうです。その後、通りかかった貨物船に救出されたのですが、船体は放棄せざるを得なかった。人命が失われなかったことは本当に良かったのですが、船体も数百万円しますから大変です。部員総出で船体捜索に走りました。愛知県の知多半島辺りに漂着するかもと踏んでいたのですが、見つかったのは志摩半島沖。ある漁船から、「無人のヨットが漂流している」という連絡が入りました。結果、海岸に漂着しなかったことで、これまた奇跡的に船体もほぼ無傷で帰ってきてくれたのです。

浅田氏:では、私は少し明るいお話を。私が学生だった頃は、バブル景気のまっただ中でしてね。OBの方々がトップ会という組織を立ち上げられていて、現役たちの部活動を支援するために、けっこうなバックアップをしていただいたのです。部活動に対する資金的な援助もそうですが、バーベキューパーティを開いていただいたり、洒落たレストランにご招待いただいて、美味しいお食事をご馳走になったり。たくさんの楽しい思い出をつくっていただきました。

ヨット部での戦績を教えてください。

伊藤氏:2年次は、全日本インカレで6位に入賞しています。3年次は、関東インカレで総合優勝。4年次は関東インカレスナイプ級3位、個人的にはベストスリーに入っていたと思います。総合5位で全日本は予選落ち、そんな戦績です。

益子氏:2年次に、2部に落ちてしまったんです。その秋から猛練習を始めて、葉山では、「一番最初に海に出て、一番最後に陸に戻ってくるのが東大」という評判が立ちました。そのくらい必死でやったんですね。結果、3年次は1部に復帰し、全日本インカレ総合2位という戦績を残すことができました。

浅田氏:僕が現役の頃から遡ること十数年間、東大ヨット部は全日本インカレの入賞から遠ざかっていました。そこで、全部員奮起して猛練習し、久しぶりに全日本インカレ入賞(スナイプ級6位)を果たしたのです。また、北海道の小樽で行われた、七帝戦(全国七大学総合体育大会)では、9年ぶりの優勝を勝ち取ることができました。

ヨット部出身の有名人にはどんな方がいらっしゃいますか。

伊藤氏:東京オリンピックの前のローマ大会に、スター級で山田水城さん、酒井原良松さんチームとフィン級で穂積八洲雄さんが出場されました。東京オリンピックでは国内最終予選までトップだったFD級の大野・森山チーム、スター級の武部・吉田チーム、フィン級の小島正義さんたちは惜しくも代表にはなれず、小島さんが補欠となりました。

浅田氏:穂積さんは、1992年のバルセロナオリンピック大会で日本セーリングチームの監督を務められています。また最近でいいますと、残念ながら北京オリンピックへの出場は逃しましたが、川田貴章さん、吉田雄悟さんのコンビが有名ですね。

70周年ではなく、75周年とされたのはなぜですか。

伊藤氏:僕は、卒業後もコーチや監督をやらせてもらって、現役の支援を続けてきました。そんな活動を評価いただいたのか、8年前に淡青セーリングクラブの会長の役を仰せつかりました。就任後すぐに70周年が迫っていたのですが、準備期間が足りないと判断。しっかり準備をして、盛大に75周年記念行事を行うことにしたのです。25年単位で考えれば、3クオーターの終わり。その後、4クオーターを終えれば100周年と、区切りもいいじゃないですか(笑)。そして益子さんに、実行委員長をお願いし、準備を開始。5月24日に安田講堂を記念式典の会場とし、500人を超える関係者にご出席いただき、大盛況の中、パーティを行うことができました。

今後の東大、東大生に望むことを教えてください。

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現役学生と記念写真

伊藤氏:今回、東大基金に寄付することを決めましたのは、ありがたいことに、ヨット部の関係者から、75周年への寄付が想像以上に集まりましてね。750万円の目標を軽く超えたのです。75周年事業の一環として現役強化支援の新艇購入を実現し、残りの一部を母校への寄付に回させていただきました。東大の学生に伝えておきたいのは、文化部、運動部どちらでもいい、学生時代に勉強以外の活動もしっかり経験してほしいということ。ただ、その活動には学生の負担がかかることもありますね。ですから大学には、勉強以外の活動に参加する学生のための支援も行ってほしい。今回の寄付が、その一助となれば嬉しいですね。

益子氏:東大が国立大学法人になったのをきっかけに、大学の財政状況や米国の有力大学基金資産ランキングなどの情報を紐解いてみたのです。日本最高学府の東大には、世界の頂点を目指してさらに頑張ってほしい。それで少しでも力になればと、伊藤さんと相談して、今回の寄付を決めました。安田講堂の寄付者銘板に、ヨット部の名前が刻まれると聞いています。ヨット部の関係者も、喜んでくれるでしょう。またぜひ、ほかの運動会のみなさんも、母校を盛り上げる寄付活動に参加してほしいと思っています。濱田純一総長が「タフな東大生」を育てたいとおっしゃられていますね。僕も同感です。東大生には、ぜひ、学生時代にひとつの目的を持って、4年間続けてみろと言いたい。ぜひ、頭脳も体力もタフな人間になって、社会で大活躍してほしいと思います。

浅田氏:75周年の記念式典を安田講堂で実施できたことを、多くの方々が喜ばれたようです。卒業生でありながら、「安田講堂に足を踏み入れたのは初めてだ」という方が多かったですから。東大の学生たちに伝えたいのは、4年間のうちにできるだけ友だちをたくさんつくってくださいということ。特に、大学時代の同級生は、一生付き合える素晴らしい仲間になりますから。何でもひとりでやろうとせず、学内、学外を問わず、どんどん交流を広げていってほしい。私の場合も、大学時代に培った交友関係があるおかげで、趣味もそう、仕事もそう、本当に豊かな人生を送ることができています。頑張ってください。

取材・文:菊池 徳行
※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。