第二十二回:内永 ゆか子様

2021年11月22日(月)

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内永ゆか子(うちなが・ゆかこ)

香川県出身。東京都立白鴎高等学校から東京大学に進学。1971年に理学部物理学科を卒業し、日本IBM株式会社に入社。女性として初の取締役に就任した後、常務取締役、取締役専務執行役員などを歴任。2008年に同社を定年退職し、ベルリッツコーポレーション代表取締役会長兼社長兼CEOに就任。2013年に同社名誉会長を退任。2007年にNPO法人ジャパン・ウィメンズ・イノベイテイブ・ネットワーク(J-Win)を設立し、理事長に就任。2013年にはGlobalization Research Instituteの社長に就任。現在、複数の企業の社外取締役も務めている。2013年、男女共同参画社会づくり功労者内閣総理大臣表彰受賞。

“美しい学問”である物理に心酔。
学び得た“本質を見極める思考”

香川県で生まれ、5歳まで京都府で育ちました。その後埼玉県に引っ越して、東京の高校に通いました。私の父は車両製造会社でエンジニアとして働き、日本で初の新幹線の開発に携わった人です。それが父の誇りで、亡くなる前に入院していた病院も「病室から新幹線が見えるところがいい」という理由で選んだほどです。そんな父の「理数系じゃなければ人間じゃない」と言わんばかりの理数系びいきに影響されたのでしょう、私も自然と理数系の道を進むことになります。

理数系の中で物理を選んだのは、高校の物理の先生の影響が大きいですね。その先生はよく物理について、「森羅万象を数式で表して物事を解明する、こんな素晴らしい学問はない」とおっしゃっていました。物理は複雑な物事からその奥底にある原理原則を見つけ出し、シンプルな数式に表します。これってすごく美しいと思いませんか? ここに大きな魅力を感じ、大学で物理を学ぶことを決めたのです。
 

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大学時代


ただ、無事東大に入学して物理学科に進んでみて気づいたのは、「私には美しい物理法則をエンジョイすることはできても、森羅万象を新しく美しい数式にまとめあげる能力はない」ということでした。物理学科では大学受験と比較にならないほどよく勉強したんですよ。統計力学の久保亮五先生、ノーベル賞を受賞された小柴昌俊先生、東大総長も務められた有馬郎人先生など、素晴らしい先生方に大変お世話になりました。物理学を学ぶことは楽しかった。でも、周囲の優秀な学生に比べると劣等生だったと思います。そして、徐々にこのまま物理の道を極めることは難しいと考えるようになり、就職することに……。

当時の物理学科では、学部卒で就職する人は数人程度。私は先生の紹介で受けたある会社から内定をいただいたのですが、仕事内容は同じでも男女に給与格差がありました。今では考えられないことですが、当時はそれが当たり前だったんですよね。最終面接で「特別に男性と同じ給与にする」と言われましたが、口約束なんてあてになりません。だから辞退しました。そんなとき、たまたま街中で「IBM」のバッチを胸につけて、颯爽と歩くビジネスマンを見かけたのです。「世界で一番のITの会社」と知り、興味を持ちました。大学の就職課で情報を調べるとIBMの募集があり、しかも男女の給与格差はなし。結果、就職活動の最後に応募して、無事採用されたという流れです。

結局、私は物理学の発展に貢献できませんでした。ですが物理の勉強をしたことで得られた物事の考え方や整理の仕方、コンセプトを明確にしたり、本質を見極める思考過程は大きな財産になりました。外資系であるIBMの開発部門では、「なぜそうなったのか?」「背景はどこにあるのか?」「本当にそれでいいのか?」といったことを常に問いかけられる組織でした。そこで、いろいろなファクターの中から本質とノイズを見極めて整理し、全体のストラクチャーを導き出すという思考が非常に役に立ったのです。ただ、私は会話の中でもしょっちゅう「なぜ? なぜ?」と追求してしまうので、日本人の友人からは「理屈っぽい!」と嫌がられることが多々あります(笑)。

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インタビュー中のご様子 

IBMで女性のキャリアを開拓。
定年後は念願の企業“トップ”に

1971年に日本IBMに入社し、営業所に配属された後は、神奈川・藤沢の研究所で開発エンジニアとして働きました。最初に注力して取り組んだのは「漢字のサポート」です。当時のIT機器はまだ日本語のサポートに対応していなかったのです。アルファベットは1バイトコードですが、漢字は文字数が数千に及ぶので2バイトコードで表し、そもそものコード体系が違います。そのため、日本語をシステム上で使用可能にするためには、システムのストラクチャーからすべてつくり直さなければなりませんでした。その業務に携わり、特に入力の方法としてのかな漢字変換のパイロットモデルまで完成させることができました。

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IBM若手時代


エンジニアとして大きな糧になったのは、その次に配属されたアーキテクチャーグループでの経験です。メンバーは皆海外経験もあって優秀な方々が揃い、徹底的にしごかれました。その中で学んだのが、まず全体像のアーキテクトを固める手法です。日本人はボトムアップで少しずつ物事を積み上げていく考え方を得意としていますが、そのやり方では完成物は精緻でも、そこに至る過程で無駄な作業が山ほど生じます。一方で全体のアーキテクトを決めてから加えてボトムアップで積み上げていく方法では、全体の構成を決めることが一番重要で、その後から細かい部分をつめていく。この発想は私にとって非常に面白かったし、その後のビジネスでも非常に役に立ちました。

日本IBMには36年間勤務し、女性初の取締役に就任、開発製造研究所担当の専務まで経験させてもらいました。ただその過程では、到底納得できないような指示を出す上司が何人もいました。そこで気づいたのです。上司のやり方や会社の方針が自分の考えと合わない場合、どんなに大きな会社のどんなにいいポジションにいたとしても、組織の決定に従うしかないことに。それが嫌なら、自分がやりたいようにしたいなら、トップになるしかない。
 

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IBM取締役時代


60歳で日本IBMを定年退職するタイミングで、ベネッセコーポレーションのトップ、福武總一郎さんから、「ベルリッツのCEOにならないか?」というお誘いを受けました。歴史あるグローバル企業、しかも求めていたトップです。結果、そのお誘いをありがたくお引き受けし、2008年にベルリッツのCEOに就任しました。ITからランゲージスクールというと、畑違いのビジネスに思えますよね。でも日本IBM時代のお客様のシステムは、金融、製造や流通、公的機関まで多岐にわたっていたので、業種の違いはまったくに気なりませんでした。実は、英語は大嫌いだったんですけどね(笑)。

ベルリッツの本社はアメリカのプリンストンにあるのですが、アメリカに住みたくなかったので、まずは東京に支社をつくり本社機能を移しました。それから当時遅れていたIT化を進めたり、ベルリッツとしてのグローバル体制の整備を行い、ビジネスモデルの変革も含めてCEOとして6年間、さまざまな挑戦をさせていただきました。大規模な改革にはもちろん多くの壁もありましたが、ビジネスとしての方向性は間違っていなかったと思っています。
 

ダイバーシティは世界で勝つ手段。
過去の成功にすがる日本に警鐘

J-Winは、企業のダイバーシティ・マネジメントの促進と定着をサポートすることを目的として活動するNPO法人です。日本IBM在職時にまず任意団体としてスタートし、退職後の2007年にNPO法人化、理事長に就任しました。ちなみに、ベルリッツのCEOとは兼任で活動にあたっていました。

J-Win立ち上げのきっかけとなったのは、日本IBM勤務時代の経験です。IBMが赤字に陥っていた1993年、外部からルイス・ガースナーという人物が招かれ、CEOに就任。大がかかりなリストラを進めるとともに、IBMのカルチャーの大改革に取り組みました。彼は「過去の成功体験にすがっている限り、どれだけリストラをしても会社は変わらない。変わるためには、今まで会社の中心となっていたWASP(アングロ・サクソン系プロテスタントの白人)だけではなく、異なる価値観を持った人間を積極活用しなければならない」という考えのもと、ダイバーシティを推進しました。それをきっかけに、日本IBMでも女性の管理職や役員が増えていったのです。

私はその取り組みを間近で見ていて、構造的問題は日本もまったく同じだと思いました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われていた時代の成功体験を懐かしがり、同一の価値観を持つ人たちで企業を運営する。それでは日本はいつまでたっても変革できないと思ったのです。テクノロジーの進歩により、ビジネスモデルは急速に変化しています。その環境で勝ち抜くためには、会社という組織の在り方や文化を変えていなかければいけません。それは過去の成功体験にどっぷり浸かっている人たちだけではできない。ダイバーシティの推進は価値判断を変え、イノベーションを生み出します。世界の多くの企業が積極的に取り組んでいるのに、多くの日本企業はまだその本質が理解できていない……。だから世界経済フォーラム(WEF)の2021年の「ジェンダーギャップ指数」で、日本は156カ国中120位という結果なのでしょう。

そもそも女性は人口の約半数を占め、優秀な人もたくさんいます。だからダイバーシティを進めるのであれば、まず女性活用から取り組むのがいいと。逆に言えば、女性の活用がうまくできていないのに、外国人や価値観が異なる人の活用なんてできるわけがない。そういった意味で、女性活用はリトマス試験紙なのです。ダイバーシティの推進は、日本企業が国際競争力を付け変革を推し進めるための源になっていくはずです。その礎をつくるべく、J-Winでは女性リーダーの育成プログラムなどを提供しています。これからも企業経営にもの言える投資家への働きかけなどを通じて、ダイバーシティの推進に取り組んでいくつもりです。
 

役に立った“東大卒業”の金看板。
学ぶ環境づくりのため寄付続ける

現在、私は東大理学部の諮問委員を務めていて、委員会でよく最近の学生の話を聞きます。昔からそうなのですが、特に理系の学生は授業や研究が忙しくてなかなかアルバイトに時間を割くことができません。そんな状況で修士、博士まで進むとなると、親にも本人にも大きな金銭的負担がかかります。もちろん奨学金もありますが、長期間受け取れば返済が重くのしかかるケースもあります。

東大理学部は世界の論文引用ランキングでも高位置にあって、大学としてやはり素晴らしい存在です。東大のプレゼンスをさらに高めるためには、学生がお金の心配なく、やりたい勉強・研究を続けられる環境整備が必要です。そのためには外部からの寄付が欠かせません。例えばハーバード大学、国内でも慶應義塾大学などは、かなりの額の寄付を集めて学生を支援しています。東大にももっと寄付を集めたい、そのためにまず自分が寄付をしようと考えたのです。

私が学生のころの東大の学費は、年間1万2000円、ひと月わずか1000円でした。幼稚園よりも安いと言われたくらいです。学生だった当時、その学費の安さは「自分が試験に合格したから当然だ」と不遜にも思っていました。ですが社会の荒波を進む中で、“東大物理卒業”という“金看板”が何度も役に立ちました。私と同じような経験をしている人は多いと思います。これだけ大きなメリットを受けたのだから、東大卒のOB・OGは、大学に恩返しする義務があるのではないでしょうか。私はこれからもできる限り毎年、寄付をしていきたいと思っています。

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木曽駒頂上


学生のみなさんには、今のうちに何でも経験してほしいと伝えたいですね。学生時代に経験して損することなんて何もありません。私は留年しましたが、今はそれすらよかったと思っています。それから大学生活で得られる知識や人脈を大事にして、これから長く続いていく自分の人生を有意義なものにしてほしい。特に女子学生は、パートナーなど誰かに頼って生きるのではなく、自分の人生は自分で決めてほしいと思います。あとは近い未来ではなく、30年先、40年先にどんな自分でありたいのかをしっかり考えること。私も今年75歳となり、一つのターニングポイントを迎えました。今までずっと走り続けてきましたが、それもここで一旦卒業と思っています。100年まで生きると想定すると、あと25年。どうやってさらに人生を謳歌していくか、じっくり考えていきたいと思います。

取材・文:にしみねひろこ
構成:菊池 徳行(株式会社ハイキックス)
 

内永様からのメッセージ