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第十五回 : 長島 雅則様 

第十五回 : 長島 雅則様 

写真:長島 雅則様
長島 雅則(ながしま・まさのり)
株式会社インフォマティクス 取締役会長
1949年(昭和24年)8月19日生
東京都出身。都立戸山高校から、東京大学工学部建築学科に進学。1974年、大学院工学部建築学科修士課程修了後、マサチューセッツ工科大学(MIT)大学院に留学。MITメディアラボの創設者としても有名なニコラス・ネグロポンテ教授の「Architecture Machine Group(AMG)」に所属し、CADの研究に取り組む。76年5月、MIT修士課程修了。同年10月、イギリスのベンチャー企業「Applied Research of Cambridge Limited」(ARC)」に入社。1981年に帰国し、10月、エイ・アール・シー・ヤマギワ株式会社(現・株式会社インフォマティクス)を設立。その後、代表取締役に就任。同社を国内屈指の空間情報システム企業に育て上げた。現在は、取締役会長。1986年から1989年には、東京大学工学部非常勤講師、2004年、2005年には、第13代、「日本MIT会」会長を務めている。
寄付者紹介
空間情報システム製品の販売に加え、空間情報クラウドコンピューティング「GeoCloud(ジオクラウド)」サービスをベースとしたソリューションプロバイダーとして成長を続ける株式会社インフォマティクス。1981年に同社を創業し、現在、取締役会長を務めているのが長島雅則氏である。東大大学院修了後、マサチューセッツ工科大学大学院(MIT)に留学し、CADの技術を研究したことが、起業への端緒となった。そして2010年、長島氏から、「グローバルを目指す学生たちのために役立ててほしい」とご寄付をいただき、「長島雅則奨学基金」を設立。本学は2011年、氏の貢献を高く評価し、「稷門賞(しょくもんしょう)」を贈呈している。今回はそんな長島氏に、学生時代の思い出や、東大への期待を伺った。

東大時代、内田祥哉研究室で建築を学び、
将来につながる数多くの知己と出会う。

戦後の1947年から1949年生まれが、第一ベビーブームの“団塊の世代”。その最後の年に、私は東京で産声をあげました。父は、戦地のフィリピンで捕虜になった後帰還して、世田谷区を拠点とし、進駐軍相手の通訳と商事事業、木工所などを営む小さな会社を経営していました。日本は高度経済成長に向かってひた進み、東京オリンピック、大阪万博が開催されるなど、土木・建築業界が超花形といわれた時代です。そんな時流もあって、都立戸山高校から、東大の理科一類に進学したのが、1968年。ちょうど、東大紛争が起こった年で、ロックアウトがいつ終わるのか分からないまま、毎日、駒場に通っていたことを覚えています。

教養課程の授業の中で、内田祥哉先生の授業を受けたのです。内田先生からは、東大の教授然とした感じがまったくなく、とても親しみやすい好印象を受けました。もちろん、授業もとても面白かった。もともと専門はこれから伸びゆく分野を選ぼうと考えていまして、それは、原子力か建築か――。最終的に建築の道を選んだのは、内田先生の影響も大きかったのでしょう。

本郷では、内田先生の研究室に所属し、建築のシステム化の勉強に励みました。この研究室は、著名な大学の先生や建築家、プレハブ工法住宅を開発した方々、多くの建設業のリーダーなど、優秀な人材を数多く輩出しています。そして私はその後、修士課程に進み、研究を続ける中、建築設計にコンピューターを利用するCAD(Computer-Aided Design)の誕生を知ることになります。

このシステムは、必ず建築の仕事を変える――。そう確信した私は、「コンピューターの先進国であるアメリカでCADの研究をしたい」と父に相談してみました。そうしたら、「マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学せよ」と。会社の顧客である米軍将校クラブのお偉いさんに、教わったようです(笑)。そして、幸いにも私はMITに籍を得ることができ、1974年に渡米することになります。羽田空港から出発する日、研究室の先輩・同僚たちが大挙して見送りに来てくれたことが、とてもうれしかったですね。

かのネグロポンテ教授の薫陶を受け、
ティーチングアシスタントやテクニカルアシスタントを経験する。

MIT修士論文の3次元CADシステム
(1976年)

最初にMITに行って驚いたことは、製図室にコンピューターがなかったこと。東大の製図室と変わりがないわけです(笑)。そこで、学部の中をくまなく調べたところ、CADなどを研究しているニコラス・ネグロポンテ教授が率いる「Architecture Machine Group(AMG)」の存在を知りました。この時、心からよかったと思いました。そして私は、ネグロポンテ教授のもとで、CADの研究とその修士論文の執筆に専念することになります。何とも行き当たりばったりのような話ですが(笑)、インターネットなどがない時代です。情報の入手がとても困難でしたからね。でも、この研究室での経験が、私の人生を大きく変えることになるのです。しかし、いつも私は運良く、人との縁に恵まれてきた気がしています。

MIT2年目の夏、AMG主催のサマーセッションが開催され、手伝いという名目で2週間のセッションに参加できる機会を得ました。この時、英国・オックスフォード県の地域厚生局が、病院や診療所の建築設計のために採用していたCADシステムの存在を知ります。そして、このシステムを開発していたのが、英国・ケンブリッジ県にある「Applied Research of Cambridge Limited(ARC)」。今風にいえば、ベンチャー企業でしたが、すでに、コンピューターを使ったシステムズビルディングの仕組みを実現しているわけです。すぐに、「この会社で働いてみたい!」と思うようになりました。

1976年5月にMITのコースを修了しましたが、私はその2、3ヶ月前くらいからARCに入社希望の手紙を送っていました。しかし、返ってきた返事は、やんわりと断られているような内容です。その後も何度かやり取りをし、結局、ネグロポンテ教授が電話で直接交渉してくれたこともあり、その年の10月にARCに入社できることに。そして、それまでの4ヶ月間は、MITでテクニカルアシスタントを務めさせてもらいました。ネグロポンテ教授が、私のために研究費も獲得してくれましてね。本当にありがたかったです。

後になって聞いたのですが、当時のARCの経営状況は低迷しており、増員できるような状況ではなかったそうです。確かに、まだサッチャー政権が始まる前で、世界中のだれもがイギリスの斜陽を危ぶんでいたころのこと。多くの知人たちに、「なぜ、今、イギリスなのか?」と不思議がられました。それでも私は、中世の面影が色濃く残るケンブリッジで働き、生活できることが楽しみで、楽しみで。ただし、「イギリスは天気が悪くて、給料も安いぞ」と言われたことは、渡英後に痛感しましたね(笑)。

イギリスのベンチャー企業に入社。
CADの開発者として活躍後、起業。

会社のエントランスにて

MITがある米国マサチューセッツ州のケンブリッジから、英国の“リアル”ケンブリッジへ(笑)。私は、社員十数名の研究主体のベンチャー企業ARCに就職し、働き始めました。数名の開発チームに加わって、システムの開発をコツコツと続けながら、顧客サポート、デモンストレーション、インストレーションなど、幅広い仕事を体験することになります。スペインのプロジェクトを徹夜の連続で仕上げた時は、ご褒美としてスペイン旅行に行かせてもらいました。妻と二人で出かけ、とても楽しんだ思い出があります。

当時のシステムは当然、英語しか表示できませんでしたが、日本語も対応できるようにしようと、空き時間をやりくりしながら当用漢字(約2000字)の日本語フォントをシステムに入力したこともいい思い出です。そうやって、私はアメリカから大西洋を渡ったわけですが、もしもロッキー山脈を越えて西海岸にたどり着いていたら、ソフトバンクの孫さんくらいの成功者になっていたかもしれないですね(笑)。

初めての自分の子供が生まれた直後の1980年の12月、私は日本に一時帰国しました。リアルプロダクトである子供を(笑)、我々の両親に、そして、ARCで開発に携わったソフトウェアプロダクトを、内田先生を始め、先輩・同僚にお披露目することが目的でした。その際、内田先生は、名だたる大手建設会社の設計担当責任者の方々にも声をかけてくれていたのです。結果、50社ほどの企業にお集まりいただいたでしょうか。プレゼンテーションとデモンストレーションをすると、「このシステムの購入を検討したい」と言う声が数社からかかったのです。

当時、欧米ではすでに、空港などの公共施設や、大型の商業ビルなどが、実際にCADで設計され始めていました。日本にも必ずこの流れが訪れるはず――。そして、私は日本での起業を決断します。その時は、そんな大それた決断だとは思わなかったのですが(笑)。1981年10月、システムの販売及び製品サポートを主な事業内容とする、エイ・アール・シー・ヤマギワ株式会社(現インフォマティクス)を設立。スタート時点はたったの3人の陣容です。私自ら、営業、技術者への教育、英文マニュアルの和訳まで、毎日毎日、まさに必死で駈けずり回る日々。でも、大変だという感覚はまったくなく、この仕事をすることが本当に楽しかった。やっとのことで某建設会社と初契約を結んだのが、起業後1年以上をすぎた、1982年11月だったことを覚えています。

それから早30年の歳月が流れ、その間、インフォマティクスの事業領域は、建築設計システムの分野から、地図・地理情報など空間設計システム分野に広がりました。そして今、約180名の社員を抱え、国内屈指の空間情報クラウドコンピューティング企業を目指しながら、官公庁、自治体、民間企業から求められるさまざまなソリューションニーズにこたえ続けています。

どんな時代であっても、知恵の創造に終わりなし。
そのひとつのキーワードが、「Go Global!」。

長島雅則奨学基金奨学生と共に

私がMITに留学したころ、国内よりも欧米のほうが学問的に進んでいた分野はたくさんあったように思います。でも、現在は日本が先端を走る研究分野もありますし、また、インターネットの進化によって世界を結ぶ情報伝達インフラが整った今、わざわざ外に出て学ぶ意味と意義は、当時と比べて薄まったのかもしれませんね。ただし、四方を海に囲まれた我が国日本は、もともと型にはまりやすい同質社会です。今のように外に出たがらない人が増えていくと、ますます型破りのイノベーターが生まれにくい国になります。確かにこの国は居心地がいいのかもしれませんが、私はそこにこそ危機感を覚えるのです。

若いころに海外で生活をすると、「えー!?」という驚きがどんどん自分に押し寄せてきます。私自身、異文化で感じる「!??」に対処する日々は、自ら考え答えを導き出すための貴重な訓練となりました。そして、アメリカ、イギリスでの生活が、今の自分をつくってくれた。本当に得難い経験をさせてもらったと思っています。しかし、そもそも、海外に向かう志向の種を育んでくれたのが、東大で学んだ6年間であり、先生や学友たちとの対話だったのです。

一昨年、そんな東大への恩返しの気持ちで、寄付をさせていただきました。その寄付金を原資とし、「長島雅則奨学基金」を設立していただき、すでに、日本人第1期生9名、外国人留学生第1期生10名に、奨学金が支給されています。彼・彼女ら、奨学生たちと交流できる機会にも参加しましたが、日本から外を目指す学生、外から来て日本で学ぶ学生ともに、とても元気だし、いい目をしている。これからも、そんな学生を増やすための一助となればいいですね。

今、いかに国内マーケット完結のドメスティックビジネスであっても、海外とコミュニケーションせざるを得ない状況・環境になりつつあります。学生たちに伝えたいのは、どんなことでもいい、まずは「これをやりたい!」という興味の種を見つけること。そして、その本質を知りたい、見極めたいという好奇心を持つことです。心から知りたいものが見付かれば、そのヒントが国内にあるのであれ、海外にあるのであれ、前を向いてがむしゃらに進んでいけばいい。本質や真理に近づくための、知恵の創造に終わりはありません。そのひとつのキーワードが、「Go Global!」だと思うのです。

取材・文:菊池 徳行

※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。

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