第二十回 : 周 順圭様

2019年06月04日 (火)

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周 順圭(しゅう・じゅんけい)

中国上海市出身。1956年、上海の高校を卒業後、南京工学院(1949年以前の国立中央大学、現在の東南大学)の1年次を終えたタイミングで、日本への留学を決断。来日後は日本語の勉強を進め、1年後に東京工業大学へ進学。同大学大学院修了後、東京大学大学院工学系研究科電子工学専攻へ。1969年に工学博士を取得。博士論文は「金属ベース・トランジスタの試作に関する基礎的研究」だった。同年、妻と1歳の子どもの3人でアメリカ(カリフォルニア州)へ移住。半導体研究の専門家としてハイテク企業数社で働き、1976年に日本企業からの出資を得て、半導体の設計及び製造メーカー設立に参加。その会社は東芝に買収され、東芝セミコンダクターUSAとなる。1984年に半導体企業のバックエンドサービス事業を行うEICO Inc.を創設。事業を軌道に乗せ、大成功に導く。その後は幅広い分野のハイテク企業をスタートアップ段階からサポートするエンジェル投資家として活躍。これまでに出資・支援してきた企業二十数社のうち、現在までに4社が上場を果たしている。

寄付者紹介

「連続起業家(シリアルアントレプレナー)」であり、また、起業家のスタートアップ期を支援する「エンジェル投資家」でもある周順圭氏は、アメリカ、特にシリコンバレーのハイテク業界ではとても有名な人物だ。中国で生まれ育ち、日本で専門教育を受け、アメリカで成功をつかんだ周氏の夢は、中・日・米の優秀な若者たちの懸け橋になること。2016年と2018年の2度にわたり、東京大学は「大学の改革と発展のために役立ててほしい」と、周氏からご寄付をいただいた。今回はそんな周氏に、これまでの人生と寄付活動についてのお話を伺った。

政情が悪化する母国を離れ、
電子工学の勉強のため日本へ

私は中国で生まれ育ちましたが、大躍進運動が始まる2年ほど前に、母国を離れる決断をしました。その頃、中国にこのまま残っていたら自分が望むような勉強・研究ができなくなるかもしれないと考え、海外への留学を決めたというわけです。家族はすでに国外で暮らしているなど、家庭環境も私の背中を押してくれました。今の私があるのも、あの時の留学の決断があってこそだと思っています。

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学生時代
 

アメリカか日本で電子工学の勉強を続けたいと考えていましたが、当時の私が学んでいた外国語はロシア語だったので、英語はまったくわかりません。一方、同じ漢字を使う日本であれば勉強しやすいだろうと考え、日本を選んだのです。ただ、あの頃は日本との国交がなかったため、いったん母が住んでいた香港にわたり、日本へ向かうというルートを取らざるを得ませんでした。

東京に着いてからまず、1年ほど日本語の勉強をしたのちに、東京工業大学への進学が叶いました。東京工業大学では大学院まで進んで修士号を取得。その後、日本電気の半導体工場で1年間の研修を終えた後、より高度かつ専門的な研究を望んだ私は、東京大学大学院博士課程の門をたたきます。そして、固体エレクトロニクス分野、特に電界効果トランジスタに関する研究を行い、その後の大規模集積回路の微細化につながる基礎を確立した菅野卓雄先生のもとで、半導体に関する研究を続ける道を得たのです。

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学生時代

工学博士を取得したのち、
アメリカへの移住を決断

スタンフォード大学での研究を終えて戻ってこられたばかりの菅野先生からは、まさに最先端の半導体の世界を教えていただくことができました。それは本当にラッキーだったと思っています。ただし、博士課程の3年間のうち、2年半はほぼ東京の三鷹で研究活動をしていました。菅野先生が委託を受けた電電公社(現NTT)との共同研究に従事していたのです。おそらく本郷キャンパスに来るのは、週に1度くらいだったしょうか。でも、あの頃のキャンパスでは全共闘の大学紛争が激化していましたから、うまく避難して研究に打ち込めたという意味では良かったですね。

ちなみに、私は東京大学大学院博士課程の時代に結婚しています。妻は日本の女性です。勉強と研究以外の本郷の思い出は“銀杏”でしょうか。秋が過ぎるとキャンパスにいくらでも落ちているでしょう。それをたくさん拾って、実を取り出して、菅野先生の研究室で炒ってみんなで食べました。とても楽しく、美味しかったことを覚えています。

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恩師 菅野名誉教授との会食

1969年、工学博士を取得した私は、その年に技術者として移民申請を行い、妻と生まれたばかりの子どもを連れてアメリカへ移住することに。やはりテクノロジーの最先端であるアメリカで、自分の力を試してみたかったのです。ただし、その頃のアメリカ経済は深刻な不況に陥っていまして、レイオフを行う会社がどんどん増えていました。

しかし、スタンフォード大学で教鞭を執っていた、ジョン・R・ピアーソン先生が仕事を紹介してくれました。ピアーソン先生は、ウィリアム・ショックレー氏と共にトランジスタの発見に貢献した人物で、私が東京大学の博士課程に在籍していた頃、東京大学で客員教授をされていました。そのときに、知り合いになったのです。先生の紹介を受けて最初に働いたのは、エレクトリック・ニュークリア・ラボラトリ社。社長は私と同じ上海出身、同じ“周”という名前の技術者でした。ここで1年働いて、次に移ったのがモンサント・ケミカル・カンパニー社。どちらの会社でもLEDの研究開発に従事していました。そうやって私のアメリカでの仕事と生活が始まったのです。
 

数々のビジネスを成功に導き、
エンジェル投資家として活動

その後、いくつかの会社を渡り歩くことになります。1971年、先述した周氏とエンテックス・インダストリ社を立ち上げてLEDの開発・製造を担当、1975年にはヒューレット・パッカード社(HP)でIC Labを立ち上げ、上級技術スタッフとして働きます。ちなみにHPでの私の上司は、菅野先生がスタンフォード大学で研究をしていた頃の指導教授、ジョン・L・モール先生でした。そして、1976年にナショナルセミコンダクタ社の研究者と一緒に、マルマンICコーポレーション社を設立します。日本のマルマン社から投資を受けた会社です。4年後の1980年に、マルマンはこの会社を東芝に売却します。そして、東芝セミコンダクターUSA社が誕生し、私はここで半導体製造施設を監督するオペレーションディレクターを務めることになりました。

そして1984年、自宅を担保にした借金で、自ら半導体製造のバックエンドサービス事業を行うEICO Inc.を創設。最高経営責任者CEOに就任します。半導体ビジネスは競争が激しく、常に大きな投資が必要で、儲け続けるのはなかなか難しい業界です。当時のアメリカで、ICチップを保護するための焼き付け工程をパスした不良品が出回っていることが問題視されていました。確かに、この工程を減らせば利益率は上がりますからね。でも、優秀な技術者はそんな粗悪なものをつくりたくない。もちろん私も同じです。そこで、ICチップ焼き付けの専門事業会社をつくり、高品質のICを加工するビジネスを始めたというわけです。

このサービスが、当時のシリコンバレーでもっとも勢いのあった半導体企業サイプレス・セミコンダクター社から認められ、同社の急成長と共にEICO Inc.も大きな成功を収めることになるのです。そうやって得た資金で、半導体測定検査装置メーカーRucker & Kollsを買収し、ICアッセンブル会社Golden Altosを創立、グループ経営をより堅固にしていきました。今でもそれぞれの分野でハイエンド向けのハイテクを誇るユニークな企業として活躍してくれています。

現在の私は、会社の実質的な経営権を息子に譲り、シリコンバレーを拠点として、ハイテクベンチャーを支援する「エンジェル投資家」として活動しています。資金の援助だけではなく、人を送り込み、会社経営のノウハウを教え、指導し、時には私の人的コネクションも使って徹底的に応援します。これまでに投資した会社は二十数社。6割が中国の清華大学出身の経営者で、全体の8割が上場か事業売却などの“エグジット”に成功しています。ちなみに上場した4社はすべて私が最初に見つけ投資した会社です。今年もう1社、上場予定の会社があります。残念ながら東大出身の経営者に投資したことはありませんが、いつか日本人経営者の応援もしてみたいと思っています。

人を育てるためにお金を使いたい。
だから教育機関への寄付が最優先

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周夫妻と五神総長
 

2016年と2018年の2回、東京大学に寄付をさせてもらいました。もちろん、私自身が学生時代にお世話になった恩返しとしての意味もあります。もう一つの理由は、中国、日本、アメリカの若者たちに仲良くなってほしいという強い思いがあるからです。中国は私を20年間育ててくれた母国です。日本は、東京工業大学、東京大学という国立大学で、専門教育を授けてくれた国。そしてアメリカは、ビジネスでの成功をもたらせてくれ、私たち家族が幸せに暮らしている国。この3つの国に、私は心から感謝しています。だから日本では東京大学、中国では清華大学に寄付をさせてもらっているのです。これからアメリカのスタンフォード大学にも寄付する予定です。これらの大学でハイテクの基礎を学んだ若者たちが、研究やビジネスを通じて協力し合う未来に役立てたなら、これほど嬉しいことはないと思っています。

これからの夢ですか? もう年ですからね(笑)。自分がやれるだけのことをやれたら、それだけですよ。でも、できる限り若者たちの研究や起業を支援してきたいとは思っています。そしてもう少し儲けさせてもらって(笑)、3つの国と教育機関への寄付を続けられたらいいですね。東京大学には、昔からたくさんの中国人が留学していて、彼・彼女らも私と同様に貴重な学びを経験させてもらったと思います。そのおかげで成功した中国人も少なからずいるはず。自分だけよければいいというのは、やはりだめです。恩返しの心を忘れることなく、いつか自分にできる貢献をしてほしいですね。

自分が使ったお金は自分のお金ですが、懐に残っているお金は、社会からいったん預かって管理しているお金だと思っています。だから、いい社会をつくるために私のお金を役立てたい。でも、政府には寄付したくないですね。国がお金を持って力をつけると、戦争を始める可能性もありますから。やはり、若者の可能性を正しく育てること、教育機関が一番の投資先だと思っています。

そもそもお金には絶対的価値はありません。どんな場合でも相対的価値。たとえば、お金がたくさんあるところに寄付しても意味がないでしょう。足りていないところに渡すから意味があるのです。でも、東京大学がそうだと言っているわけではありませんよ(笑)。私の会社は30年前から、カリフォルニア州のミルピタスに本社を置かせてもらっているのですが、そこの小学校に少しだけ寄付をさせてもらったら、ものすごく喜ばれました。きっと、スタンフォード大学に同じ金額を寄付しても、そうはならないでしょうね(笑)。

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五神総長とのご面談

取材・文:菊池 徳行(株式会社ハイキックス)
※寄付者の肩書きはインタビュー当時のものです。