2022年02月22日(火)
山本 浩司 准教授
東京大学経済学研究科
専門分野:経済史・経営史・近世イギリス史
歴史家ワークショップでは全国の歴史系研究者を対象に、初めての英語発表から英文原稿の推敲と査読のノウハウ、一流国際誌への投稿、一般向け講演の技術と実践まで、学術成果を社会と共有する場を提供しています。 今回は、歴史家ワークショップの運営メンバーである山本浩司准教授に、立ち上げの背景や取組み、課題についてお聞きしました。
―近年、人文社会系の学問の衰退が問題視されています。
そんな状況の中、歴史学は現在どのような課題を抱えているのでしょうか。
歴史学は、ただ昔のことを調査するだけの学問だと思われているかもしれません。ですが「温故知新」という言葉のとおり、あらゆる物事の過去や背景を知ることで、今の社会が直面している課題の解決策が見えてくることが多いのです。また、自分が属する社会とは時代も事情も異なる社会について知ることは、他者を理解し、寛容性を育み、自分自身を見つめ直すきっかけにもなるはずです。
そうした可能性を持つ歴史学ですが、ご多分に漏れず研究者数が減少しており、以前のように活発な大学内での知識の共有やネットワークの構築ができなくなりつつあります。コミュニティ自体が小さくなり、研究者同士が枠組みを超えてお互いに助け合うことが難しくなり、大学院生も孤立してしまっています。これには少子化や国・政府の方針も影響していることは否めません。学術テーマごとの話し合いの場はあるのですが、社会にその内容や成果を十分に発信できているとはいえません。その結果、研究者を志す人材が減り続ける負のサイクルに陥ってしまっている。
残念なことに、今や人文社会系の研究者になること自体が、人生においてリスクを伴う選択とまでいわれています。もちろん私自身を含め、多くの歴史研究者がこの問題を認識しており、現状を打開しようと個別に取り組みをしてきました。しかし、研究者同士で解決策を話し合ったり、歴史研究の楽しさや有益さを広く訴えかけることのできるプラットフォームの構築は、立ち遅れていたように思えます。
歴史研究者が“減る”ことは、誤った過去の認識に基づく判断や行動が“増える”危険性につながっています。例えばですが、統計を基礎とした政策評価も、正確なデータが取られていなければ、その後いくら分析を重ねたとしても時間と労力が無駄になってしまいますよね。それと同じで歴史研究も過去の事実に対する誤った認識や、特定の集団により都合よく解釈された内容が広まれば、それが危険な判断や行動を招く危険性が高まります。私は実際に、そのようなことがすでに起きてしまっているとも感じています。そういったリスクを防ぐためには、しっかりとした歴史の知見があり、正しい議論の筋道を示すことができる歴史の専門家が社会には必要なのです。
―研究者が減り、孤立しているという状況の中で
「歴史家ワークショップ」を立ち上げた背景を教えてください。
最初に取り組んだテーマは「歴史学の国際化」です。歴史研究において、英語での成果発表が重要といわれているものの、そのやり方がわからないと悩んでいる研究者が多いことがわかりました。そこで、英語で自身の研究をまとめた書籍を出版した2人の研究者を招き、出版までのプロセスやノウハウをレクチャーしてもらうイベントを企画しました。そして、ある学会終了後に会場となった大学の一角をお借りし、非公式イベントのかたちで開催する計画を進めていったのです。
当然、学会のプログラムには当該イベントの情報は掲載されていないので、事前に知り合いにメールをしたり、当日は会場の外で仲間と声を張り上げて参加を呼びかけたりしました。すると私たちの予想を大きく超えて、40人以上が来場してくれた。なんと立ち見が出るほどで、会場は研究者たちの熱気に包まれました。その結果をふまえ、私はあらためて研究者たちの歴史学の国際化への関心の高さを実感し、こういった交流と支え合いの場の必要性を強く認識したのです。
歴史家ワークショップは、最初は数人の集まりでしたが、その後さまざまな取り組みを続けていく中で、参加者も増え、徐々に組織として整っていきました。今は日本全国の研究者や大学院生、海外留学中の学生ら合計50人ほどが参加しています。割合としては大学院生が最も多いですが、年齢や肩書きなど関係なく、学び会える場所を目指しています。素晴らしい面々が集まりお互いを支え合っていることが、この活動の大きな魅力だと思います。
―設立から約6年が経ちましたが、
現在、歴史家ワークショップではどのような取り組みをしているのでしょうか?
現在の主な活動テーマは「国際発信力強化」「知識共有・ピアサポート」「社会との成果共有」の3つで、代表的なイベントがいくつかありますが、一つは「リサーチ・ショウケース」です。これは外国語で自身の研究テーマについて簡潔に発表・質疑応答を行うもので、過去累計130人ほどが発表を行っています。もう一つ、「英文校閲ワークショップ」は、英語論文の執筆スキル向上を目的としたイベントで、参加者が互いに論文を発表し合い、改善点などを議論します。ただ英語の文法をチェックするのではなく、「読者が期待していることは何か」を理解したうえで、伝えたいことをできるだけクリアな英語で書けるようにします。こちらは過去60回ほど開催しています。
これらの取り組みを通して、英語での研究発表を目指す全国の若手歴史研究者を、最初の一歩から論文発表ができるまでシームレスにサポートしています。ほかにも「ピアサポート」として、研究の道か就職かといったキャリアに関する問題や、研究と子育ての両立といった課題、さまざまな研究にまつわる悩みなどについて語り合うイベントも実施しています。
これまでの活動で、すでに一定の成果も出ています。日本学術振興会の特別研究員で、歴史家ワークショップの運営委員でもある安平弦司さんの論文が、2021年12月に歴史学分野のトップジャーナルである『Past & Present』に掲載されることが決定しました。オンライン版ではすでに公開済みで、紙面には2022年5月号に掲載予定です。
安平さんや私が取り組むような欧米の歴史研究については言語の壁や資料へのアクセスがしづらいといった点から、以前から日本の研究者は不利だといわれてきました。ですがその常識が覆されたのです。安平さんは英文校閲ワークショップでの長時間の議論を通して、論文をブラッシュアップされました。イベントなどを通して研究者を支援してきた成果が実ったことは、本当に嬉しかったですね。目標としてきた雑誌『Past & Present』に安平さんの論文が先に掲載されることは、自分にとっても大きな刺激となっています。
―かなり幅広い活動をされていますが、
そもそも山本先生はなぜ歴史研究の道に進まれたのでしょうか?
私が歴史研究家を志すことになった大きなきっかけは、大学3年時に参加したイギリスの大学のサマースクールの経験にあります。まず、現地でイギリス人と交流する中で、彼らの自由な考え方や生き方に大きな衝撃を受けました。それまで海外に住んだことも、長期の海外旅行に行ったこともありませんでしたが、日本とは異なる文化・環境に身を置いて、さらに自分を磨きたいと考え、イギリスの大学院に留学することを決めたのです。ただ、当時はまだ歴史学に進むという明確な考えはなく、留学先の大学院ではイギリスの政治思想を研究テーマに据えるつもりでいました。
ところが、実際にホッブスやルソーなどを学んでいくと、自分は過去の偉人が書いたものを学ぶことよりも、それが書かれた当時の人々の“日常のリアル”を知りたいと考えるようになりました。おそらくこれには高校時代の経験が影響していると思います。高校の夏休み、父親の勧めで父親がつながりを持つ工場でアルバイトをすることに。今よりも外国人労働者に関する規制が緩かった時代だったので、不法労働者と噂された方とも一緒に部品の仕上げなどをして働きました。父親は私に、経済ニュースに登場するようなクリーンな会社だけでなく、もっと社会のドロドロした部分も知っておくべきと考えたのでしょう。このときの経験も、人々が歩んできた過去や生活事情に興味を持つきっかけの一つになったと思います。
イギリスでのサマースクール参加直後の山本先生。大聖堂がシンボルの街イーリーにて。
またその頃、日本の就職活動のあり方に疑問を抱くようになりました。法律などで決められているわけでもないのに、時期が来たらみんな一斉に就職活動サイトに登録します。自分を含め多くの友人がその理由を問うこともなく就職活動を始めていく様子に衝撃を受けました。そういった「習慣の檻」のようなものに自分を含めた多くの学生たちが絡めとられていることに気がついたのです。私はどのように習慣の檻が生まれ、なぜそこから抜け出せないのか、その理由を知りたいと思うようになったのですが、留学するまでは、それが何の学問のどの分野に該当するのかがわかりませんでした。そこでビジネスの領域で過去にあった習慣の檻が少しずつ変わっていった事例を抽出し、社会が変化する様子やその原因を調べることができれば、その知識は現代の私たちが直面する課題について考えるときにも役に立つのではないかと思い至った。そういった紆余曲折を経て、歴史研究の道を歩み始めたのです。
―山本先生は、「歴史家ワークショップ支援基金」の活動も展開されています。
今回、寄付を募っておられますが、その理由や目的を教えてください。
私たちは、歴史研究者や研究者を目指す大学院生が、既存の仕組みには存在しないけれど「あったらいいな」と思うイベントなどを一つ一つ企画し、実現しています。特に大学院生は歴史研究が置かれた現状への問題意識を強く持っていて、たくさんの斬新な提案をしてくれます。ところが私たちのリソース不足のために、10個のいい提案があっても3つ程度しか着手できていないのが実情です。
特に課題になっているのが、事務局機能。現状は少人数のスタッフで無理をして回している状況で、彼らに大きな負担がかかってしまっているので、スタッフの補充や組織の改善など持続可能性の高い事務態勢を構築する必要に迫られています。すでに寄せられているアイデアを実現し、さらに活動を充実させるためには、より強固な事務局機能が必要です。また大学院生からの提案を実現するためには、講演などを依頼する著名人への謝礼や会場費用などの資金も欠かせません。面白い企画はたくさんあるのですが、人も時間もお金も不足していて実行できていないのです。
歴史家ワークショップのイベントを重ねるごとに、研究者や学生たちの成長を実感します。例えばリサーチ・ショウケースは賞が設定されており、和やかな雰囲気ながら一定の緊張感もあります。そんな中で歴史研究を心から楽しんでいる研究者たちが切磋琢磨し、よりよいものを生み出そうと真剣に取り組んでいる。そんな彼らの様子を見ていると、私自身もワクワクしてきます。「こういう場があること自体が素晴らしい」と感動のコメントをくださる来場者も多いです。また、「発表した内容を生かして論文が書けた」「海外の研究者との接点ができた」「学会発表で賞を受賞したことで留学が決まった」など、イベントを通して新たな一歩を踏み出した学生も増えています。私たちが立ち上げた歴史家ワークショップは、歴史研究にかかわる方々にとって、なくてはならないプラットフォームとなったと自負しています。歴史家ワークショップの活動をさらに深化させ、ここから生まれた成果をしっかり世の中にお返しすることで、物事の背景を想像し、他者に共感し、現在の「あたりまえ」から距離をとって自分たちのあり方を反省するという、社会のあらゆる領域で応用可能な「歴史的思考」を育んでいくことができると私は考えています。
今後も歴史家ワークショップの活動を通じて、そういった歴史研究の楽しさや意義をさらに社会に広めていきたい。ご興味をお持ちの方は、ぜひ、歴史家ワークショップの現場にお越しください。この活動は、我々のような専門家だけに閉ざされているものではありません。より多くの方々が歴史的思考を学ぶことで、より公正で豊かな物事を生み出せる世の中になるはずです。ぜひ、活動の現場にご参加いただき、歴史的に物事をとらえることの楽しさや大切さを実感いただけると嬉しいです。また、皆さまからの寄付を通じて若い歴史研究者たちが成長し、その輝きを増していく姿をご覧いただきたいと思います。そして、この大切な活動を継続していくためには皆さまからのご寄付、ご支援が必要です。「歴史家ワークショップ支援基金」へのご支援を、どうぞよろしくお願いいたします。
取材・文:にしみねひろこ
構成:菊池 徳行(株式会社ハイキックス)
※肩書きはインタビュー当時のものです。