2024年12月04日(水)
納富信留 教授
文学部長。西洋古代哲学を専門とし、古代ギリシアにおける「哲学(フィロソフィア)の誕生」をテーマとしている。前6世紀初~前5世紀の初期ギリシア哲学、前5世紀後半のソフィスト思潮とソクラテス、及び、前4世紀のプラトン、アリストテレスらの古典期哲学を主な対象として、哲学と西洋古典学の二つの学問手法で迫っている。また、日本における西洋哲学の受容も近年のテーマ。
国際プラトン学会(元会長)など海外で研究活動を展開しており、とりわけプラトンとソフィスト思潮について多数の欧文業績がある。著書に、The Unity of Plato's Sophist (Cambridge University Press;邦訳『ソフィストと哲学者の間』)、『プラトン 理想国の現在』、『プラトンとの哲学 ―対話篇をよむ』(岩波新書)など。翻訳に、プラトン『ソクラテスの弁明』(光文社古典新訳文庫)などがある。
この教員に関係する東大基金プロジェクト
文学部の学問を支える基金
「文学部の学問を支える基金」を開設したのは、東京大学文学部としてご寄付の大きな窓口を作ることで、より多くの皆様が支援してくださりやすいかたちを整えるためです。もともと文学部には、違った趣旨の寄付窓口が何種類か存在し、ご寄付をいただいていました。そのなかには戦前から続いているようなものもありました。そこでいただいてきたご寄付は非常にありがたいものでしたが、やはり寄付者の皆様の立場に立ってみると窓口がわかりづらいということで、ひとつのプロジェクトに集結させることにしたのです。
まず、私自身の研究についてお話しさせていただきます。40年近く古代ギリシア哲学を専門に研究してきました。哲学に出会ったのは中学校の終わりごろだったでしょうか。その後、高校生や大学生のころは哲学に限らず文学や歴史なども好んで読んでいました。職業の選択肢として、ジャーナリストもいいかなと思ったころもあったのですが、ものごとを根本的に深く考えることができるのはやはり哲学だと。特に古代ギリシア哲学は、「宇宙とは」「生きるとは」「幸せとは」など広いテーマについて考えるものです。学部生のころは、ライプニッツの研究に興味を持ったこともあったんですよ。2年生の時に駒場の授業で、日本を代表するカント研究者だった坂部恵先生のもと、ライプニッツの小品をラテン語とフランス語で半年間かけて読みました。ライプニッツは発想豊かな人で、刺激的な時間でしたね。ヴィトゲンシュタインに興味を持っていたころもあったし、初めからずっと古代ギリシア哲学が自分の専門だ!と決めていたわけではないんです。東京大学の学部生時代に多様な哲学を学び、最終的に古代ギリシア哲学を専門に選びました。古代ギリシア哲学の代表的存在であるプラトンの著作は、哲学のみならず歴史・法学・政治学・文学・心理学、そして自然科学・医学まで、すべての分野が含まれた内容であり、その懐の大きさに魅力を感じたんです。
ケンブリッジ大学大学院に留学した際には、西洋古典学を学びました。東大にいたころは、先ほども言ったように、ライプニッツやカントやヴィトゲンシュタインやハイデガーなど、何でも勉強してきたわけです。だから、現代に至るまで縦軸としての哲学はひと通り読んでいて、学生と議論もできます。一方、西洋古典学では古代ギリシア・ローマ時代という特定の時代を横の広がりで研究するんです。古代ギリシア哲学を本当に理解するためには、その時代の社会と文化を深く知らないといけないと考えたのです。プラトンがいたのは2400年前ですが、どういう社会で、どういう状況で、あのような著作を書いたのか。背景や歴史的な知識がないと、どうしてソクラテスが裁判にかけられているのかなどわからないわけです。それで、ケンブリッジではパピルスや写本を読み解く訓練を徹底的にしました。そうすると、当時の環境をはじめとする歴史、文学、法学、工学、美術などについて、自力で解読できるようになってきます。文献を読み解くだけではなく、遺物の発掘作業で地面を掘り進めるような経験もしました。ケンブリッジには5年ほどいましたが、西洋古典学を学んだおかげで、古代ギリシア哲学への理解が非常に深まりましたね。
ケンブリッジで博士課程を終え、九州大学で研究者としてのキャリアがスタートしました。専門的に研究してきたのはやはり古代ギリシア哲学で、特にプラトンやソクラテスやソフィストについての問題を多く扱ってきました。プラトン・ソクラテス・ソフィストというと3つ別のテーマのように感じられる方もいると思いますが、扱うものはすべてプラトンが書いた30数点の対話篇です。その文献から、プラトン哲学そのものを引き出すこともあれば、ソクラテスが何者だったのかを分析することもあれば、ソフィストとはどのような存在だったのかを解読することもあります。プラトンの著作は残っていますが、同時代の他の哲学者たちの作品はほとんど残っていません。でも、少しだけ残っている資料があり、そこで活かせるのが西洋古典学の手法です。わずかなテキストと、その周辺状況など各種要素をつなぎあわせ、全体としてどのようなことがあったのかを復元する。そうすると新たな視点が見えてきます。
人類がいま読むことができる最古のプラトンは、890年にビザンツ帝国において書かれた古代ギリシア語の写本です。それから12、13世紀を中心に大小含めて200くらいの写本が現存しています。ルネサンス時代に、写本同士とその他資料を照らし合わせながら、プラトンが書いた元本を復元するという作業が盛んになりました。そして、それは現代も続いています。実は、プラトンを現代語に翻訳する作業そのものが復元作業なのです。私が翻訳したプラトンの本も、ひとつの「復元案」ということです。2400年も前にプラトンが著した考え方や人物像やエピソードをどのように現代語に落とし込むか。あらゆる思考を駆使し、検証し、想像力を働かせて行う復元作業なのです。
この先、古代ギリシア哲学の研究をさらに展開させたいと考え、着手していることがあります。地球環境や貧困など、現代のあらゆる問題を考える時に、古代ギリシア哲学が何かしらの糸口になるようにしたい。そのために「世界哲学」という切り口から、哲学が人間にどのような知恵を与えうるのか、各分野の哲学を専門に研究している方々と議論しています。そうすると、古代ギリシア哲学の秀でた部分と、欠けている部分がわかってくる。古代ギリシア哲学は自然科学の大元になっているので、自然環境や科学と人間の関係を考える際に大きなヒントを与えてくれます。一方で、それが西洋に偏った内容であることもわかります。日本においては、日本哲学やアジア哲学はマイナーな扱いを受けてきました。それは再検討したほうがいい。日本における古代ギリシア哲学の紹介や研究は、明治以来150年近く存在しています。日本というアジアの国で西洋哲学を議論するとはどういうことなのか、ということをもっと深く考えて形にしたい。その結果は、西洋以外の世界にもアピールしうる内容になるのではないかと考えています。
「文学部の学問を支える基金」では、6種類の使い途を選べるようになっています。その中で、新しい試みとして「文学部エンダウメント」を開始しました。エンダウメントとはあまり馴染みのない言葉かもしれません。いただいたご寄付を元本とし、それを使わずに拡大させ続け、運用益のみを使用していく仕組みのことです。元本を切り崩すことがないため、永続的な財源となります。エンダウメントでない通常のご寄付や補助金の場合は、期限内に、指定された用途で使用しないといけません。しかし、文学部には時代を超えるような長いタイムスパンでの研究内容が多くあります。例えば2000年以上前の古代ギリシアの文献を読み解く場合、1年以内で終わらせることなど到底できません。宗教・哲学・歴史・美術・文学など、文学部が取り扱うテーマは、長い時代を超えて人間とともに歩んできたもの。長期的な研究の基盤となりうるエンダウメントは、文学部の性質に非常に合うものだと思っています。
他に5種類ある使い途をご紹介します。まずは「大江健三郎文庫」。昨年9月に開所しました。ノーベル賞作家・大江健三郎さんの自筆原稿が保管されており、すべてデジタル化を完了しています。ここをしっかり運営し、年に2回ほど公開イベントを開催できるようにしたい。将来的な望みとして、「世界文学研究センター(仮称)」と名付けられるような、文学研究の拠点の設立を目指しています。大江健三郎さんの作品や評論は、いろいろな言語に翻訳されています。大江さんの事例をはじめとして、日本の文学が世界へどのように広まっていったのか。逆に、日本はどのように世界の文学を受容してきたのか。そのような研究を可能とする文学拠点を大江健三郎文庫内にできればと考えています。
次の使途が、「地域連携活動」。文学部は北海道北見市・和歌山県新宮市・山形県鶴岡市・鳥取県米子市と連携しています。北見市常呂町には実習センターが設置され、長期的な研究を行なったり、夏季に1週間ほど学生が実習を行なったりしています。そういった考古学・宗教・美術など、東京にいるだけでは学べないことが多いです。各地域との連携を深めつつ、対象地域や分野をさらに広げていくために、ご寄付を活用させていただければと考えております。
「国際人文学プロジェクト」は、東大文学部の成果を世界に発信するためのご寄付です。文学部では毎年、本郷キャンパスを拠点に国際集会や学会を何件も開催しています。哲学では、昨年は国際シェリング学会があり、来年には国際女性哲学会の大会を予定しています。そのような会を開催するにあたり、場所を提供するだけでは成り立ちません。せっかく世界中から研究の第一人者が集まるわけですから、東京大学に来てよかったと思ってもらえるような会にしたい。持続的に世界と接続した文学部でありたい。そのためには、どうしても皆様のご支援が必要となります。
それから「学生奨学金」。こちらはいまのところ、社会学研究室の学生・院生のみが対象です。社会学にはフィールドワークが多い。特に海外に行く場合、学生の負担が大きくなるので、渡航費の援助を出すような奨学金となっています。この仕組みは、社会学の卒業生組織の運営により、もともと存在していたものです。今後は、文学部全体の研究室にも奨学金の枠を広げていければ、と構想しております。
最後は「文学部の基盤整備」です。文学部の施設や環境整備などに使わせていただく予定です。文学部がある法文2号館という建物は、100年近くの歴史を持っています。銀杏並木沿いにあり、外観も美しいため訪問いただく方々にも人気の場所ですが、壁面の劣化や館内の雨漏りなど、老朽化した箇所が多数あります。キャンパスは学生や研究者が自らの活動に打ち込める場所であってほしいので、できるだけ快適な環境にできるよう、整備していきたいです。
以上がご寄付の使い途となります。理系の学問と違って、文学部がご寄付を集めるのは意外に思われるかもしれません。しかし、文化を守る・学問を維持するというのは非常に難しく、知恵が要り、手もかかることです。資料を保管するだけで大きなお金がかかります。100億円いただけたら、新しい何かを開発できます、と宣言できるような学部ではありません。しかし、何千年も続いてきた学問を、私たちはしっかり守らなければならない。地味なんですが、その地味なところが大事だということをご理解いただけましたらありがたいです。
このご寄付において、私は金額の多寡は重要ではないと思っています。それ以上に、皆様の応援や思いを形にしていただける場ができた、ということが大切。文学部の応援団を増やしたいのです。ご寄付をきっかけに、東京大学の文学部と関わりができ、その後もご通知やイベントへのご招待などでより深く関係を結ぶことができる。普段の生活の中で、社会の皆様が文学部と接点を持っていただく機会はあまりなかったかと思います。そこに「文学部の学問を支える基金」ができたことで、皆様とつながるきっかけができました。私たちはこの場を大切にして、文学部の存在を皆様にアピールしていけたら、と考えております。
2028年には本郷キャンパスで世界哲学会議(World Congress of Philosophy)を開くんですよ。5年に1回ずつ開かれる哲学の大会なんですが、日本では初開催となります。世界中から4000人ほど集まる大規模なものです。東大創立150周年の翌年ということもあり、大学一体となって取り組んでいけたらと考えています。
東大が創立された1877年から、文学部はありました。学問の基礎を担う学部として、先人たちから受け継いだ文化をしっかり守っていきたい。ご寄付という応援の窓口をきっかけにして、社会の皆様との関係もより強固にしていきたいです。 ご支援のほど、どうぞよろしくお願いいたします。
取材・文・写真:東京大学基金事務局
「文学部の学問を支える基金」
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