2026年09月28日(月)

寺村 フレスコ 公 様
1956年、医学技術学校を卒業し、虎の門病院血液検査室主任を務める。61年、シカゴのマウントサイナイ病院へ出向。帰国して虎ノ門病院に戻ったのち、72年に再び渡米し、マウントサイナイ病院のがん研究部門に勤めた。働きながら学び、75年にシカゴ医科大学で医学技術の学士号、84年に微生物学の修士号を取得。85年、同じ大学で病理学者として研究と教育にあたっていたラウル・フレスコ氏と結婚した。2013年に夫を見送り、19年に帰国。
25年、相続財産を基に夫との連名によるエンダウメント基金を東京大学に創設。その運用益を、ステューデントサポーターズクラブ(SSC)奨学金と東京大学コレクション未来基金に活用している。
――今日は、お写真を持ってきてくださったのですね。
持ってきました。これが父で、こちらが主人です。主人の写真は枕元に置いてありますよ。どこへ行くときも持っていきます。いつも、そばにいます。
主人が亡くなって、ある程度まとまった財産を相続し、どうしようと悩んでいた時に、東京帝国大学を卒業した父が生前「ラグビー部に寄付したい」とよく言っていたのをふと思い出しました。
――なるほど、それで東京大学へのご寄付を考えてくださったんですね。
父は高校からラグビーを始め、法学部に入学してからもラグビーを続けていました。それが1930年にはカナダへ遠征する日本代表に入っているのですから、よほど熱心だったのでしょう。
卒業してからは、大阪毎日新聞の記者になりました。当時、東大を出て新聞記者になる人はあまりいなかったみたいですよ。
――お父様がラグビーをされている姿は、ご覧になったことがありますか。
私は全然。ただ、父は死ぬまで、東京大学のグラウンドへ学生のラグビーを見に行っていました。散歩がてら、私もついていったことがあります。
家でもラグビーの話をしていましたけれど、家族は誰も関心がなくて、何もわからない。聞いてあげる人がいませんでした。もっとお付き合いしてあげればよかったな、と、いまになって思います。
――それで、はじめはラグビー部へのご寄付を考えられたのですね。
父のために、そうしようかと思いました。でも、考え直しました。寄付金は主人が遺してくれたお金で、主人はラグビーをしていません。
主人は医学部で教えていました。学生を指導することに、それはもう熱心な人でした。だったら、お金のない学生さんを助けるほうが喜んでくれるかしら。そう思いました。
――寺村様ご自身の歩みも伺わせてください。ご幼少期はどのように過ごされたのでしょう。
大阪に生まれましたが、戦争中は高知県に疎開していました。東京に戻ったのは戦後です。
――医学の道に進まれたのは、どういう経緯だったのですか。
日本で初めての医学技術の学校に入りました。1956年に卒業して、虎の門病院の血液検査室に勤めました。
勤めはじめて3年経った頃、医学技術学校の同窓会がありました。50人ほどが集まって、招かれた先生が、アメリカの病院の検査室を見学して回ってきたお話をしてくださって。
そして最後に、「アメリカへ行きたい人がいれば紹介しますよ」とおっしゃいました。ところが、手を挙げたのは私ひとり。びっくりしました。たくさんの人が手を挙げると思っていましたから。
――勇気が要ったのではありませんか。
いえ、勇気も何もありません。行きたい人、と言われたから手を挙げただけです。
父が新聞記者として外国を行ったり来たりしていましたから、子どもの時は外国を遠いと思っていませんでした。すぐそばにあるような気がしていました。
――それで渡米されたのが1961年。一般の海外旅行が自由化される前ですから、いまとは重みがまるで違いますね。
そうかもしれません。でも、そんなふうに考えたことがありませんでした。紹介していただいて、行くことになった。それだけでした。行き先はシカゴのマウントサイナイ病院です。アメリカでは有名な病院です。

――現地での生活や仕事は、大変ではありませんでしたか。
言葉だけは大変でした。英語を習ってから行ったのに、外国人が多くてきれいな英語を話す人が少なく、皆それぞれの国のなまりがあり、慣れるまで大変でした。でも仕事そのものは血液検査ですから、日本でやっていたことと変わりません。困ることはありませんでした。
4年ほどで日本に戻り、ふたたび虎の門病院に勤めました。ところが5、6年も経ったら、またアメリカへ行きたくなってしまって。
そのときは、父と母が二人そろって病院の院長を訪ねてきました。娘を止めてくれ、と頼み込んだそうです。それでも私は振り切ってアメリカに行きました。今では可哀想なことをしたと思っています。
――1972年、二度目のシカゴ生活ですね。ご主人との出会いは、そのときですか。
再びマウントサイナイ病院に就職して、今度はがんの研究部門に配属されました。そこに主人がいました。病理のお医者さんで、同じ系列にある大学の医学部では学生も教えていました。
でも、すぐにお付き合いをしたわけではありません。主人は独身でしたから、若くてきれいな女性がたくさん彼を狙っていました。
私は英語も話せないし、黙々と仕事をしていました。

――どのようにして話す機会が生まれたのでしょう。
働きながら、医学部の学校に通いはじめました。それをきっかけに、主人と話す機会が生まれました。私がいたのは研究室でしたから、勤務時間の途中でも授業に出られたのです。職場を抜けて行って、終わればまた病院に戻ってくる。そういう通い方をしていました。
――そこから、どうやって距離が縮まったのですか。
私はアメリカで医学技術を学んでいたのですが、始めは授業で先生が何を話しているのかがわからない。ノートすら取れませんでした。だから、思い切って彼に相談しました。そしたら、こう言ってくれました。「何でもいいから、わかった単語だけでいいから書いてきなさい」
――救いの手を差し伸べてくれた。
はい。私は1時間の授業で10単語くらいしか聞き取れない状態でしたが、彼はそれを見ただけで私が何を習ってきたのかをすぐに理解してくれました。それから毎日のように、その日の授業をきちんと教え直してくれるようになりました。
――なぜ、そこまでしてくださったのだと思われますか。
かわいそうに思ったのではないですか(笑)。でも、本当に丁寧に教えてくれました。学部のあいだも、修士のときも、ずっとそうやって勉強を教えてもらっていました。勉強だけではなく、お互いの人間性について、いろいろと知ることもできました。それでより親密になりました。

シカゴ医科大学で医学技術の学士号を取得し、成績優秀者として卒業
――やはり愛の力もあったのでしょうね。
そうかもしれません。授業ではよくわからなかった英語も、主人が個人的に、私が理解できるまで丁寧に教えてくれました。そのおかげで、試験に出る英語は全部わかり、いつもクラスで一番でした。私たちの関係は知られていなかったので、「あの子は全然しゃべれないのに、どうして成績がいいのだろう」と不思議がられていましたね。
その後、博士課程にも行こうかと思いましたが、主人が「一軒の家に二人もPh.D.(博士号)はいらない」なんて言うものですから、やめました。私に勉強を教えることに、さすがに疲れてしまったのでしょう(笑)。
――働きながら学位を取られたわけですが、学費はどうされていたのですか。
アメリカは学費が高いですよね。ですけれど、病院と医学部がつながっていましたから、試験の成績が70点以上と良ければ病院が学費を出してくれる仕組みがありました。だから私は一銭も出していません。お金がかからず、マスターまで取ることができました。
――いま寄付先として選ばれているステューデントサポーターズクラブ奨学金※も、学びたい学生を支える仕組みです。ご自身が受けられた支援と重なりますね。
確かに、そうですね。あのとき病院が補助を出してくれなかったら、私はとても続けられませんでした。
※ステューデントサポーターズクラブ(SSC)奨学金: 経済的な理由で修学が困難な東京大学の修士課程の学生を、寄付により2年間支援する返済不要の給付型奨学金。寄付者と奨学生が年1回の報告会で交流できる「顔の見える支援」が特徴。
――ご主人とは1985年にご結婚されています。どんな方でしたか。
優しい人でした。学生に教えるのが本当に上手で、人気がありましたよ。学生にとても親しまれていました。
語学の人でもあって、フランス語はペラペラ、英語、スペイン語、ドイツ語も話しました。日本語だけはだめでしたけれど(笑)。
音楽が好きで、シカゴ交響楽団のシーズン券を持っていました。週に一度、ずっと連れて行ってもらっていましたね。

――ご旅行にもよく出られたそうですね。
ヨーロッパへはずいぶん出かけましたし、エジプトにも行きました。アジアは近いから、後に残しておこうと言って、二人では行きませんでした。だからいま、一生懸命ひとりでアジアを回っています。この7月の終わりには、スリランカへ行ってきました。
――お仕事はいつまで続けられたのですか。
70歳くらいです。長く続けていましたが、主人が「もう仕事を辞めて、好きなことをするといい」と言ってくれて。
それでステンドグラスと陶人形を始めました。陶人形は粘土から焼いて、ドレスも顔も全部自分でつくっています。
――ご寄付を決められるまでに、どのくらい悩まれましたか。
主人が亡くなって、ある程度まとまった財産を相続したときに、どうしていいかわからない。どうしよう、どうしようと、ずっと考えていました。
私、物欲があまりありません。立派なブランドのバッグや服には興味がない。贅沢をしたくないのです。とはいえ、余らせて死んでしまってもしょうがないでしょう。そんな時に、父がいつも東京大学のラグビー部に寄付したいなと言っていたのを思い出しました。
そして、大学への寄付を決めたら、気が楽になりました。
――東京大学基金にははじめ、遺言によるご遺贈のご相談をされていたそうですね。
そうです。最初は遺言に書いておくつもりでいました。ところが、東大基金の担当者の方からお話を伺った際、生前に寄付をすれば、報告会などで学生さんと直接お話ししたり、交流したりする機会もあると教えていただきました。
自分の目で見られないのでは、ちゃんと役に立っているかどうかわからないでしょう。それで、生きているうちにしようと思いました。

安田講堂に掲示されている銘板の前で
――エンダウメント※という形も、そのときに決められたのですね。
はじめはその仕組みも全然知りませんでした。元のお金はそのまま残って、運用益の分だけを毎年使っていただけるのだそうですね。教えていただいて、納得してお任せしました。
――支援先としてSSC奨学金をお選びになったのはなぜでしょうか。
報告会があって、学生さんに会えると伺ったからです。主人が学生に教えることに熱心でしたから、そういうところがいいな、と。
――もう一つ、総合研究博物館の東京大学コレクション未来基金にも運用益を活用されています。
あれは、私が後から東京大学基金のウェブサイトで見つけました。自分の興味にあっているな、と。
――基金にはご主人と寺村様、お二人のお名前を冠しています。
最初は、主人の名前だけでいいと申し上げました。でも、せっかくだから二人で、と言っていただきました。
※エンダウメント:寄付金を基金として運用し、その運用益を研究・教育・学生支援などに長期的・継続的に活用する仕組み。
――2025年11月にSSC奨学金の報告会、12月に総合研究博物館のバックヤードツアー、翌年3月には安田講堂の銘板見学会、7月にはUTokyo Future TVの公開収録とラボ見学会とさまざまなイベントに参加されているそうですね。報告会は、いかがでしたか。
楽しかったですよ。文系の学生も理系の学生もいて、いろいろな研究がありました。私は一人でどうしようかと思っていたら、職員の方がすっとそばに来て助けてくださいました。賑やかで、本当に楽しかったです。
学生の研究発表は私に理解できないことばかりですけれど、それでも面白いですね。

2025年11月、ステューデントサポーターズクラブ(SSC)報告会に参加
――博物館はいかがでしたか。
雨漏りがすると聞いて、それで、博物館に寄付をしたいと思いました。
――寄付をしてよかったと思われることはありますか。
気が楽になりました。それが、いちばんです。
主人には、届いているでしょうか。そして父も喜んでくれていると思います。
――東京大学に期待されることを聞かせてください。
難しいことはわかりません。ただ、無駄にならないように使っていただきたい、と思っています。どういう使い方がいいのかは私には見当もつきませんけれど、とにかく、有効に役立てていただきたいです。
――最後に、これから学ぶ学生の皆さんへ、ひとことお願いできますか。
皆さん、頭のいい方ばかりですから、ご自分で考えて、好きなようになさるのがいちばんだと思います。
忠告がありがたいときもありますけれどね。でも、自分で好きなように生きるのが、いちばんいいじゃないですか。それが幸せだと思います。

よく散歩する駒場キャンパスでお姉様と