仲間と共に走り続けた
―未来の後輩へつなぐ襷<第30回>

2025年09月12日(金)

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室城 信之様

1982年東京大学法学部三類(政治コース)卒業
同年警察庁入庁
警察庁では交通局、警備局、組織犯罪対策部等で勤務
都道府県警察では、福岡、香川、愛知、岐阜、大阪、大分、東京(警視庁)、北海道で勤務
そのほか、内閣官房、運輸省にて出向勤務
2016年警察庁を退職し、現在は警察職員・元職員が会員のクレジットカード会社にて勤務
東京大学陸上運動俱楽部(陸上部OBOG会)理事長
公益財団法人・日本陸上競技連盟・副会長
公益財団法人・日本スポーツ協会・評議員
一般財団法人・東京マラソン財団・理事

東京大学陸上運動部は、約100名の部員が所属する、学内唯一の全学陸上競技団体です。今回、同部の主将を務めたOBであり、警察庁での多彩な経験を経て、今なお陸上に深く携わっていらっしゃる室城様に、学生時代やお仕事のお話、「陸上運動部支援基金」へのご支援に対する想いを東大基金のファンドレイジングサポーターとして活動している私・そらがインタビューしました。

学生時代から現在までを振り返っていただいてもよろしいですか?

中学から陸上を始め、短距離と走幅跳をやりました。高校に入ってからは三段跳びも開始して2年の時に全国インターハイに出ることができました。3年の時は足首の捻挫をしてしまって、全国インターハイの出場資格はあったんですが本戦には出ずに終わってしまいました。ずっと陸上に打ち込んでいたこともあり、2年浪人の後に文科Ⅰ類に入学しました。

「大学に入ったら勉強一筋でいこう」と当初は思っていたのですが、大学では授業以外の時間に居場所がないということもあり、結局5月の連休明けに東大陸上運動部(以下、陸上部)に入ることに。私の学年には他に全国大会の経験者がいなかったこともあり、当時の主将(法学部4年)に「4年になったら主将をお前がやるんだぞ」と言われました。法学部には私法、公法、政治と3つコースがあって「政治コースだったらノートが手に入れば成績は何とかなるからお前は政治コースを選んで陸上に打ち込め」と言われ、「はい!」ということで政治コースを選んだのでした。

就職については「弁護士など個人でやる仕事よりも組織で仕事をしたい」と考え、国家公務員を目指すことにしました。なんとか試験に合格して8月初めからの官庁訪問で一番先に内定をいただいた警察庁に決めました。実は8月中旬に合宿が予定されていたので、警察庁の採用担当者に「主将ですから省庁を決めて合宿に行きたい」という話をしたら「分かった。うちで採用するからお前は合宿に行け!」って言われ、ほっとしたことを覚えています(笑)。

警察庁入庁後、私のキャリアがほかの人と少し変わっているのは、大臣の秘書官を2回務めたことですね。自治大臣兼国家公安委員長である3人の大臣の秘書官を合計2年間務めました。阪神淡路の地震や国松警察庁長官狙撃事件、サリン事件などの直後であり、我が国全体が騒然としていた中での勤務でした。

もう1回は、麻生太郎総理大臣の秘書官でした。当時は警察からの総理大臣秘書官が防衛も含めた我が国の危機管理全般を担当し、北朝鮮からのロケットが我が国上空を飛び越えた際には緊張しました。また、選挙期間は総理の遊説に全て同行し、本当に忙しかったですね。選挙の遊説で警察は警護対象をしっかり守りたい。一方で政治家はできるだけ有権者と身近に接したいということで、「警備の万全」と「有権者との交流」を両立させるため、警備サイドと党の遊説担当との間で調整役を務めました。休日などで総理と離れている際も、何かあったらすぐに総理のもとに駆け付ける必要があり、事故などでストップする可能性があるということで公共交通機関は一切使わず、別々の会社の携帯電話3台を常に持ち歩くなど、緊張の連続の1年間でした。

警察庁では道路交通法の改正を何度も担当しました。シートベルトの着用を最初に義務化した時の法律改正や電動アシスト自転車を「自転車」として定義付ける改正などです。当時はシートベルト着用義務に反対する声もあり、例えば「事故で車が炎上し、ベルトをしていたら逃げられないのでかえって危険だ」という反対意見もあったんです。自分が手掛けた法律が交通事故の発生や事故による死傷者の減少、また、社会の利便性向上につながっていることを実感できる仕事に携わることができたのは、大変幸せなことだったと今でも思います。

警察庁を退職してから9年になりますが、道路交通情報をカーナビに提供するVICSセンターの役員や自動車教習所を経営する会社の会長、警察の職員や元職員そして家族が会員であるクレジットカード会社の社長など、交通関係や警察職員の福利厚生関係の仕事を務めてきました。

現在、日本陸上競技連盟の副会長もされていると伺ったのですが、陸上に戻ってきたきっかけや現在のお仕事について教えていただいてもよろしいですか?

経済産業省のOBで県警本部長の経験もあった方が日本陸上競技連盟の会長を務めておられ、その方からお誘いをいただいたことがきっかけで、8年前に日本陸連の役員に就任しました。2年前から副会長を務めています。

学校の先生の「働き方改革」を背景に「部活動の地域展開」ということで、中学校の部活動をやめて「スポーツは学校ではなく地域の運動クラブで」という形に移行する方向が打ち出されました。これにより様々な問題が出てきます。例えば地域の陸上競技大会では、学校の先生が審判の資格を持っていて、子供たちを競技場へ引率するとともに審判を務め、競技会が終わったら子供たちを連れて帰る、という役割を果たしてくれています。しかし、地域の運動クラブに移行して先生方が審判などの役割を果たしてくれなくなると、競技会自体が成立しない。おそらく他のスポーツでも同じ問題が生じていると思います。

また、陸上競技場はメンテナンスに相当のコストがかかるし、公認競技場で有り続けるためには一定の期間ごとに公認のチェックを受けなければいけないんです。それにもお金がかかる。自治体が財政難で競技場の公認を取るのをやめてしまう、あるいは競技場自体を単なる広場にしてしまうような動きが全国的にありまして、こういうことも大きな課題なんです。
さらに、温暖化が進み、猛暑の夏に開催してきたインターハイなど競技会の開催時期や競技方法を見直さなければならない。こうした多くの課題に取り組んでいます。

陸上部で主将を務めた経験等が、警察庁や陸上競技連盟でのお仕事でどのように役立ってきたか教えていただいてもよろしいですか?

陸上が他のスポーツとちょっと違う点は、走る、跳ぶ、投げる、色々な種目があるじゃないですか。他のスポーツでもチーム内で選手毎のポジションなど役割分担はあるかもしれないけれど、基本的には同じフィールド、コートで競技をしますよね。その点、陸上は同じ競技場でやるけれど、やることは全くバラバラなんです。例えば、大学の陸上部で「みんなで一緒に強化合宿をやろう」という時にも、長距離ランナーはトラックをぐるぐる回るよりもロードを走れるような場所で合宿をやりたい。短距離やジャンプの選手は、ちゃんと整備されたトラックやフィールドがある競技場がいい。一方、投擲の選手はもちろん投げたいんだけど、フィールドに穴が開いちゃうから立派な競技場は投擲の練習やらせてくれない所が多いんです。

そうすると調整が難しくて、「それぞれ別の所で合宿をやった方がいい」って意見が当然あるわけです。

しかし、「対校戦で勝利する」というのが部の大きな目標なんです。例えば、東大は100年を超える歴史のある京都大学との対校戦があります。各大学3人ずつそれぞれの種目に選手を出して、各種目で1位が6点、2位が5点という形で総合得点を競うわけです。対校戦では選手のサポートや応援も含め、部員みんなの気持ちがひとつになって初めて実力以上のものを発揮できると私は思うので、反対する部員を説得して「合宿はやはり全員同じ所でやろう」と提案しました。

これは重要なことだと思います。社会でも、全く同じことが言えると思っています。多くの従業員が様々な仕事をしている会社などの組織でも、みんなの気持ちがひとつになれば、バラバラで仕事をしてるよりもより良いパフォーマンスが発揮できることがある、ということを私は信念としてやってきました。

警察の仕事も同じように、多様な仕事があります。例えば、私は交通の仕事が長かったんですけども、交通違反の取り締まりをするとドライバーから反感を買います。しかし取り締まりをやらないと交通事故は減らない。一方で、「交通の連中が取り締まりをするから、事件の捜査をしていても「警察は嫌いだ」と言って協力してくれないことがある」と考える人も警察の中にはいます。お互いがお互いの仕事を尊重し合っていないと成り立たないのが警察の仕事ですから、そういう意味では経験が役に立っていると思います。

気持ちをひとつにして、実力以上のものを発揮できた経験はありますか?

私は当時400mリレーをアンカーとして走っていました。京都大学との対校戦で勝利すべく練習を重ねていたんですが、100mを10秒台で走る選手が京大には3人いるのに対して、東大には1人しかいないという極めて不利な状況でした。そこで、リレーメンバー各人がタイムをあげるだけではなく気持ちをひとつにすることが必要だと考え、当時駒場にあった木造2階建ての同窓会館でリレーメンバーだけの合宿をやりました。2泊ぐらいでしたけども、とにかくリレーのバトンパスの練習をして、夜はメンバーで思い切り飲むという合宿でした。その成果だと今でも思うのですが、本番で三走までは京大に勝ってたんですよ。驚きました。リードしてバトンを受け取ったアンカーの私が最後に抜かれて負けてしまいました。私は10秒台の記録を持っていなかったのに対して、アンカーの京都のキャプテンは10秒5という記録を持っていましたから抜かれるのは当然なんですけども、本当に悔しかった。でもその一方で、あそこまで僅差の勝負ができたことはすごく嬉しかったですね。

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インタビュー中の風景

では次に、陸上部に寄付する時に込めた思いなどをお伺いしていきたいのですが、まずOBOGの方にとって陸上部の存在というのはどういうものですか?

学生時代、自分たちが一生懸命汗を流してトレーニングをした陸上グラウンドが駒場にあるということがひとつ。毎年OBOGと現役の部員が一緒になって記録会「OBOG戦」っていうのをやっています。子供や孫を連れてきて「お子様レース」も。いい汗を流した後は生協食堂で現役生とOBOGが一緒に懇親会をやる。大学を卒業したあとも陸上をずっと続けている人が最近は結構いますね。

陸上には年齢層別で競い合う「マスターズ大会」があります。それぞれの種目で5歳刻みの年齢層別日本記録があるんですよ。日本記録を持っている陸上部OBもいます。今でも競技を続けている人は休みの日に現役と一緒に駒場で練習しています。

グラウンドの改修や用器具整備、そしていま進行中の部室の再建に相当の経費が掛かるので「後輩たちがしっかり競技を続けられるように」という思いで寄付をしているOBOGが多いのだと思います。

あとは、陸上部のOBOGで同じ職域で仕事をしている人たちの集まりもあります。以前、警察庁にいる陸上部OBが5人ぐらい集まった時に「いろんな役所の陸上部OBOGを集めよう」ということで、私が声をかけて定期的に中央官庁勤務、元勤務のOBOGが集まっています。中央官庁で、例えば電話ひとつで色々話ができる人間がいるっていうのは仕事の面でもすごく役に立つんですよ。例えば「今度君の役所と協力して仕事をすることになったんだけど、この部門に知り合いがいたら紹介して」とか。OBOGが直接その仕事に関わっていなくても、話をつないでもらうと仕事がスムーズに進む。陸上部で同じ釜の飯を食った仲間が、リタイアした人を含めて、いま霞ヶ関や永田町に90人ほどいるんです。国会議員も4人います。

ということで、卒業の後も陸上部の繋がりが役に立っている面があると思います。

陸上部はOBOG会の会費を納入してくれる人が多いと聞きました。やはり自分が現役時代の時に助けられたという経験があるからでしょうか?

そうですね、残念ながら、現役の時はOBOGの寄付や会費に助けられているという感覚は持っていませんでしたね。グラウンドってのは大学が作って整備してくれていると思っていたし、駒場グラウンドのすぐ横のトレーニング体育館の一角に部室があるのが当たり前だと思っていました。

しかし数年前に、トレーニング体育館を壊して新しい建物を建てるって話になって、突然部室がなくなってしまいました。急遽部室再建のための寄付を募り、いま工事が進んでいますが、このように、毎年の会費とは別に突然多額の寄付が必要になることもあります。私もできるだけ貢献しようと思って東大基金の仕組みを活用して陸上部への寄付に努めています。家内にはあまり言えないですが(笑)。

室城様から見た陸上部の魅力を教えてください

陸上には様々な種目があるので、それぞれの能力に合った競技を選ぶことができます。以前、検見川のグラウンドで合宿をした際、雨降りの日に体育館でバスケットボールをやることになり、短距離、長距離、跳躍、投擲など、種目ごとのチームに分かれました。そこで驚いたのが、長距離チームはバスケットボールにならないんですよ。ドリブルも下手だし、パスが来ても取れないで自分の頭にボールをぶつける。その日の夜に飲みながら話を聞いたら、小学生の時に逆上がりができない、飛び箱も向こうまで飛べなかったといった人が長距離チームに多数いたんです。「長距離だったら毎日コツコツ走っていれば早く走れるようになる」と一念発起、早朝ランニングを始め、努力の結果「校内マラソンで上位に入ったのがきっかけ」とのこと。長距離は、運動がどんなに苦手な人でも努力すれば記録が伸びる競技だと思います。「競技での勝負」もさることながら「自己記録の向上」が大きな喜びになる。競技レベルに差があっても一緒に楽しめる。これが陸上の魅力ですね。

今年の年明けには陸上部の現役の選手が箱根駅伝で走ったことが話題になりましたが、OBOGの中でも反響はありましたか?

反響はもちろんありました。「赤門襷リレー」と言われましたが、東大の現在の主将・秋吉君と大学院生・古川君の2人が関東学連チームの8区と9区を走って襷が渡るという、滅多にないことが今年ありました。

実は、東大はチームとして1回箱根駅伝に出場しています。昭和59年、私の2年後輩が4年生の時で、60回記念大会のため出場20校中17位の成績でした。箱根駅伝のルールとして、1位が通過してから一定時間内に中継所に来ないと「繰り上げスタート」となって、襷を受けずに次の走者をスタートさせます。東大の場合は、ほとんどの中継所で繰り上げスタートでした。

今回もトップチームと学連チームの実力差がかなりあるので、8区から9区に襷を繋ぐのはなかなか難しいと思っていたのですが、秋吉君が区間7位の快走で東大陸上部同士で襷がつながり、あれは感動しました。
さらに、古川選手に給水した陸上部の部長八田教授(私と陸上部同期)がテレビに映り、「給水おじさん」ということで選手よりも有名になって、これもたくさんのOBOGに見ていただいたと思います。「東大から3人が走った」ということですね。

当日私も沿道に行き8区と9区両方応援しようと思って、8区で応援したら最寄り駅まで走って電車に飛び乗り、先回りして9区で応援ということでしたが、後輩の雄姿を生で見られて良かったと思います。

最後に、このような陸上部への寄付を考えている方へのメッセージを何かお願いできたらと思います。

現在おそらく陸上部への寄付は陸上部OBOGからがほとんどではないかと思いますが、「赤門襷リレー」の反響を見て、広く陸上の関係者や、あるいは陸上部と関係のない東大卒業生からも応援される陸上部になって欲しいと思いました。後輩たちが良い環境で陸上をやってもらえるようにしたい、というのが、寄付をする一番の理由ですね。

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赤門前でのショット

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